ここのところの松下さんとのコメントのやり取りで、何となく分かってきたことがるのだが・・・
なかなか文章で表現するのが、難しい。書いてみるので、ニュアンスが伝わると嬉しい。
断酒と言うと、何だか物凄くハードルの高いチャレンジのように聞こえる。実際、そのとおりなのだが、考え方ひとつで、少しその高さを下げることが出来るかもしれない。
断酒する場合、酒及び飲酒行為を次のように捉えていると、これでは真面目すぎて、辛いと思う。
- 酒は大人なら普通に飲んでも良い飲み物である。
- 飲酒は適量であれば身体に良い。
- 適正飲酒出来る人が羨ましい。
- 自分は酒をコントロール出来ないので飲んではいけない。
- 酒は人生の潤滑油だったのに・・・
私が考える酒及び飲酒に対する基準は、自分にとって、それが正当か不当か、である。昨日のtweetがこれだ。
自分にとっての飲酒は、正当か不当か。
— 断酒男爵 (@anomiyakun) 2017年2月19日
正当な行為ならば、断酒するには相応の理由及び忍耐が必要だろう。
不当な行為ならば、それをやめるのは当たり前なのだ。
これは、飽くまでも自分にとってどちらかであって、他人は関係ない。
問題なく飲酒している人もいる。飲酒することが問題の人もいる。
飲酒を正当な行為と認識している内は、酒への未練が半端ではなく、それを断ち続けるのに非常なるエネルギーが必要なのでは?と感じる。地球の上空を飛び続けるジェット機が、燃料を燃やし続けるように。
飲酒は自分にとって不当な行為であることを認め、酒を心底、徹底的に嫌ってしまえば、嫌うためにはかなりのエネルギーを必要とするが、断ち続けるのは楽である。宇宙空間を慣性の法則で飛び続けるロケットみたいなものだ。地球から脱出するにはものすごい燃料が必要だが、一旦宇宙に飛び出せば、もう燃料を補充しなくても、どんどん地球から離れて行く。
酒惑星の重力に捕らわれたまま酒を飲まないのと、酒惑星の重力を脱して宇宙空間へと飛びだして飲まないのとの違いか。或いは、孫悟空が筋斗雲で四方八方縦横無尽に飛び回っても、実はお釈迦様の掌の上だった例えで言うなら、いつまでも酒の掌に乗っているのか、そこから脱出するのかの違いか。
どうしたら酒惑星の重力を振り切って、宇宙空間へ飛びだせるか。
酒なんて碌なもんじゃない!と、酒・飲酒行為を全面的に否定してしまえば良いのである。《碌でもない飲み物=酒》と《碌でもない習慣=飲酒》を捨て去れば良い。
この考え方の肝要なところ・・・これは、自分の心の中だけのことであって、世の中に全面的に開示するわけではない。他人が酒をどう思うかとか、世の中がアルコールに対してどんな態度なのか、などは全く関係ない。飽くまでも、自分が基準なのである。
毎日の飲酒でも、大まかに次の二通りある。
- 毎日普通に晩酌を楽しんでいる人。
- 毎日異常に飲酒をせざるを得ない人。
一方は、日常生活の中に溶け込んだワンシーンであり、もう一方は、生活そのものに食い込んだ修羅場だ。
酒が生活を破壊しているなら、それは不当な行為である。断つべきであって、続ける理由などひとつもない。
この辺りの考えが徹底していないと、ある期間酒を断つことが出来たとき、ひょっとして自分の病(アル中)が治ったのではないか、などと大いなる勘違いをして、再飲酒に走ってしまうのである。
そもそも、一度罹ったら一生治ることのない病であることを知らないか、認めていない場合、この次は決めた分量だけ飲んでみよう、などと考えてしまうのだ。あの、くらくらする酔い心地を求めてしまうのだ。
はっきり言って、そんな人(←私も含まれる!)に、飲酒の正当性は全くゼロである。不当である。それを素直に認めて、酒を断つのが道理に適った自然な筋道なのだ。
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