reko様へのコメントの返信内容から思いついて、今日のブログを書いている。
素面と書いて、「しらふ」とか「すめん」と読む。意味は、酒に酔っていないこと。他には、化粧していない顔、とか、剣道などで面をつけていないこと、という意味も。
大酒を飲んでいた頃は、「しらふ」と「酔っ払い」の二つの状態を、行ったり来たりしていた。アルコールが入ると、しらふから酔っ払いに切り替わる。24時間のうち、半分は「酔っ払い」だったような気がする。
今、思い返して恐ろしいのは、いつも酔っ払って寝てしまっていた夜中に、緊急事態が発生したとしたら、適確な判断と行動が出来ていただろうか、ということ。家族が怪我をしたとか、子供が誘拐されたとか、強盗が押し入ったとか。(追記:二年前の東日本大震災の時のような地震も!)
泥酔おやじなど、どんな状況でも、なんの役にも立たない!車はおろか、自転車も運転できない。それどころか、自分の足でまっすぐに歩くことさえ出来ない。電話が掛かって来ても、脳がアルコールで麻痺しているから、どんなに重要で緊急なことを言われても、理解出来ない。
今までは、たまたま、運よく、そういう場面に遭遇しなかっただけだ。
ちょうど酒を飲む前で良かったという出来事が、あった。それは息子がまだ小学生だったころ、確か土曜日だったと記憶しているが、そろそろ酒を飲み始めようとしていた矢先、一本の電話が入った。利用している鉄道のほぼ終点の駅からだった。
知り合いの所へ用足しに、息子を一人で行かせたのだが、その帰り、電車の変電所に落雷があり、利用している鉄道が全線STOPした。息子は、どうしていいか分からず、駅員さんに相談したらしい。
我が家は車を持っていないので、この時は、あー、車があれば便利だったのになー、と、かみさんとため息。でも、車が有ったとして、もし私が既に酒を飲んでいたら、誰が運転する?かみさんは免許を持っていない。大丈夫、なんて勝手に判断して、飲酒運転していたかも、などと想像すると、ゾーーーッとする。
バスと他の鉄道とタクシーと徒歩で、その駅まで迎えに向かった。酒を飲んでいたら、そこまで辿り着く前に、おやじが行方不明になっていたに違いない。
そんな、昔のことを思い出しつつ、やっぱり自分は、いつもアルコール抜きの、クリアな頭でいなければならない、と考える。
『365日24時間年中無休の素面(しらふ)生活』
これだ。
何かあっても、すぐに飛び起きて、動くことができる。足元もしっかりしている。入ってくる情報をきちんと判断し、的確に行動する。もし、判断に誤りがあったとしても、しらふの自分がしたことなのだから、それは仕方がない。諦めがつく。
肝心な時に、酔っ払い状態の自分が過ちや誤りを犯したとしたら、あー、アルコールがいけない、と後悔することだろう。
何しろ、「適度」ではなく「過度」の飲酒しか出来ない人間だから、私は。
追記:R-papaさんのコメントで、つい二年前の東日本大震災を思い出した。。。たまたま、被災地から離れていたが、交通機関は麻痺し、てんやわんやだった。その時間は、子供の学校の行事があり、妻は学校にいたし、私は別の用事で、早く帰り、最寄駅を降りて自宅へと歩いているときに、大きく揺れた。
その夜、TVで被災地の模様を見ながら、私も、酒を飲んでいた。何故、今のような考えが浮かばなかったのだろう。
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