『陶酔』というのは、気持よく酔うこと。
中々手に入らないレア物の銘酒・美酒をチビチビ飲んで、あー、やっぱりうまいな~、幸せだなー、って。ここまでなら、私もOKだと思う。私だって、ここまでで終わっていたことも、かつてあったし。
酒は毒だとか、飲酒などという習慣は、人類に不要だ、と、最近は、過激なことを書いているけれども、『過ぎたるは及ばざるが如し』が、飲酒への究極的な戒めだと、私は考える。
陶酔は、気持ちがいい。その気分を長く味わいたい。それには、その状態を持続するためのアルコールを、我が口に追加注入しなければならない。その分量が、かなりいい加減なわけで。『過ぎたるは…』になってしまう。
飲酒をコントロール出来ない私の、陶酔と泥酔の間にある溝は、いつの間にか埋められ、なだらかにつながっているのだ。
たぶん、飲み始めてから、ある時間までは陶酔だったはずなのだが、どこかから、泥酔してしまっている。その境目は自分では全然分からない。
ここで、この文章を書きつつ、ひとつおもしろい発見をした。気持よく酔う『陶酔』という漢字を変換するとき『透水』という字も出てくる。透明な水だ。正体を無くすほど酷く酔う『泥酔』は、同じく変換時に、『泥水』という字が出てくる。ドロ水だ。
程よく酔っている時と、酩酊してしまっている時の、頭の中を、水の状態で表したようだ。透水と泥水。確かに、気持よく酔っている時は、いつもより頭が冴え、饒舌になる。この時、頭の中には、透明な水が流れている。ところが、泥酔してくると、端から見ていても、何を考え何を言っているのか、さっぱり分からない。この時、既に、先ほど流れていた透明な水は、大雨で増水した川のように、濁ったドロ水に変わっているのだ。
こうして、冷静に、第三者の視線で、自分の飲酒行動を見直し、分析出来るのも、断酒が継続しており、その上、今殆ど飲酒欲求を感じないからだ。
酒と名が付く全ての飲み物には、アルコールという共通の薬品が入っており、飲み過ぎた時に、自分に及ぼされる作用は、十分に分かっているし、それを、もう二度と繰り返したくないんだ、と、酒が目に入る度に己を戒める。
いっときの陶酔に浸りたいが為に、酒を飲むと、いつの間にか泥酔しており、はて、陶酔と泥酔にハザマは無かったのか、と酷い宿酔から醒めて思うわけだが。
陶酔と泥酔のハザマは、無いのだ。続いているのだ。
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