昨日の記事にコメントを下さった方への返信で書いたことについて、もう少し書きたいので、今日はそれを話題に。。。
私が断酒を始めた頃の目標は、子供なら誰でも知っている、仮面ライダーとかウルトラマンのように、飲む人から、飲まない人への変身だった。飲みたい気持ちを我慢して飲まない日を継続していれば、その内に、自分が飲まない人になれるのではないか、と本気に思っていた。
元々、衝動的に開始した断酒なので、予備知識と言うものは無かった。本当は、医者に行くとか、断酒会に入るとか、そういった手段のほうが専門家に相談も出来て、断酒の道筋としては確実だったのだろう。
私はどういうわけか、がむしゃらに、単独で事を進めた。断酒に関する知識は、見切り発車をして、あるかないかの道を走りつつ、後から本を読んだり、ネットで探したり、色んな先輩方の断酒ブログを読んだりして、身につけた。自分で書き始めたこのブログでも、コメントを寄せて下さる方から学んだ。
そして、飲酒欲求に苦しみつつも、日が経つに連れて、それが弱まって来るのを感じた。だが、かなり波がある。寄せては返す。昨日は平気だったのに、今日は無性に飲みたいとか。弱まりはするが、無くならないことにも気付いて、どうも、当初考えていた、飲まない人への変身というのは、方向が違うのではないかと思うようになった。
で、最近立て続けに読んだ、なだいなだ先生の本で、な~んだ、そういうことだっのか、と腑に落ちたのが、昨日の記事に書いたようなことだ。飲みたい気持ちは一生無くならないんだ。アルコール依存に治癒は無い。そうか。ある日を境に、飲まない人にへーんしーん!てのを考えていたのだが、これ、有り得ないことなんだ。
ならば、飲みたい自分との共存を考えたほうが良い。そこで、昨日の記事のようなことを書いてみた。タイトルの、『変身はできないが変心はできる』というのは、飲まない人への変身は無いけれど、飲まない自分へと変心することはできる、という意味だ。
goo辞書によれば
変身・・・他のものに姿を変えること。別の姿・ようすになること。
変心・・・考えが変わること。心変わり。
どうだろう。考えを変えることならできる。飲みたい自分も、自分の一部であることは確かなので、否定しても仕方ない。それならば、如何に飲みたい自分をなだめすかして、飲まないでいられるか、こちらのほうが現実的なアプローチだと、私は考えるし、実際にそうしている。
昨日の記事にコメントを下さった、スエヒロさんの、『禁酒の愉しみ』『禁酒の快楽』、これ、近日中に記事にしたい。愉しみ、快楽にまで高めることが出来れば、昨日の記事のインナードリンカーくんを飼い慣らすところから、更に上のレベルへ行けるなー
ん~実に、素晴らしいな、『禁酒の愉しみ』『禁酒の快楽』
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今日は、かみさんと、紅葉を見に、山の方へ行ってきた。何枚か写真を。実に綺麗だった。感動!境内では、舞台が作られ、歌やら、尺八演奏やら、ミニコンサートやらの生演奏で楽しむことも出来たし、紅葉の下で燃える篝火も、また格別だった。但し、寒さもまたまた格別で、深々と冷えた。
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