師走とはよく言ったもので、慌ただしく時が過ぎてゆく。
人生、五十代になると、目は老眼、体力の衰え、気力も落ち、あー、いつの間にか初老という境涯に入ったんだなー、と感ずる。
それでも、酒を飲んで酔いが回ってくると、あの青春の日々が鮮やかに甦り、どういうわけか、偽のエネルギーが湧いてきて、自分はまだまだ、大丈夫!なーんて、アルコールに騙されているとも知らずに、怪気炎を上げていたものだった。
何の事はない、実は、肝臓を始め、他の臓器や血管でさえも衰えを示し、代謝出来るアルコールの量も、日々少しずつ減っていることに己は気付いていなかった。いつまでもいつまでも、若い頃のイメージで酒を捉えていた。
私にとっての「訣別と出会い」とは、今年の春にあった出来事。
『《酒との》訣別と《飲まない人生との》出逢い』
短いけれど、意味はとても深い。
酒との訣別と共に、酒絡みでしか付き合いの無かった人々とも、「訣別」してしまったが、これは仕方ない。これとは正反対の現象が同時に起こった。それは、酒をやめた人々との出逢いであった。
酒絡みで訣別した人の数倍の人数の人と、ネットで出逢い、意見交換をすることが出来た。もちろん、対面ではないけれど、情報機器からネット回線を通じて、その向こう側に、ちゃんとその人がいるわけだ。しかも、断酒の同志だ!
あのまま飲んだくれ生活を続けていたら、今頃どうなっていただろうか。想像するだに恐ろしい。老いに比例して、アルコールの害が加速的に身体や脳を蝕んでいたのではなかろうか。
老いるとともに頑固になり、身体に悪いことが分かっていても、酒をやめようとすらしない人が多い。その中の一人になる寸前で、私は、飲酒列車から下車した。駅で降りたのではなく、已むに已まれず、飛び降りた。
四十代の頃、まだ今より体力があったと記憶している。三十代、二十代と遡れば、もっともっと元気だった。五十代と言えば、ちょっと前までだと、もう平均寿命を越えている。鬼籍に入っている年代だ。そういう意味では、これまでの人生を見直して、家のリフォームと同じで、生き方のリフォームをする年代なのではないだろうか。
家のリフォームなら、子供が独立したから、リビングを広くしようとか、廊下とかトイレ・風呂に手すりを付けようとか、段差をなくしてバリアフリーにしようとか、これから暮らしやすくしようと考える。
自分の人生もリフォームということで、若い頃から意味もなく続けている習慣(例えば、タバコや飲酒(笑))を、やめてみようとか、朝、30分のウォーキングを始めてみようとか、これから老いてゆく自分の生きやすい方向へ舵を切るのだ。
何かに訣別すれば、きっと他の良いものに出逢う。逆に言うと、良いものとの邂逅を欲するならば、不要なもの・こと、悪いもの・こと、を捨て去らねばならない。
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