私の住む所も、20年ぶりという雪で大変なことになっている。私の子供の頃の冬は、いつもこんな感じだったので、あまり驚かないが。。。
さて、今日の話題。
飲酒は、快楽を得る手段としては、とても手軽で簡便な方法だ。
コンビニでもスーパーでもいいから、買ってくるだけ。飲食店ならば、注文するだけで、目の前に、それは置かれる。あとは、飲むだけ。
口からどんどん流し込まれる酒の成分エタノールが、胃腸から吸収され、全身を駆け巡り、血液脳関門をさえ通過し、脳に直接作用して、頭の中に快楽をもたらす。これ、経験したことのある人なら、誰でも分かるはず。
しかし、一部の人(私だ!)には、飲み終わりのストッパーが付いていないか、壊れているので、快楽のままに飲み続ける。すると、最早、我が脳は正常に機能しておらず、ブレーキの壊れた車が高速道路を走っているような状態になっている。ガス欠か、どこかに衝突するかしないと、車は停止しない。
翌日、飲み過ぎた代償を支払うことになる。場合によっては、一生かけても払えないこともある。
手軽な快楽の飲酒の重さを1円玉1枚1グラムとして、その代償は時に、車1台1トンどころか、人の命に関われば、地球の重さにさえ変えられない。このことを、今日のタイトル『手軽な快楽の重すぎる代償』という言葉で表現してみた。
今日の記事を書こうと思ったのは、今朝のニュースで、大阪の食品会社の元役員が酩酊状態で社員の女性にセクハラした事件の裁判結果を見たから。被告側は「わいせつ行為はしていない」と無罪を主張したそうだが、酩酊状態だった人が、その時のことを覚えているわけがない。
昨年のブログの懺悔記事に書いたので、繰り返しになってしまうが、私も20代の頃、職場の飲み会で強か酩酊し、同僚の女性社員の胸を触ってしまったことがある。私が何をしたのかは、その女性と周囲の人が皆明確に覚えているのに、当の本人の私には、なんの記憶も無かった。
あまりにも手軽な快楽の手段である飲酒。もちろん、ちゃんと己をわきまえて飲める人には何ら問題はない。世の中、そのような人ばかりであれば、酒に纏わるトラブルも問題も無いだろうが。飲みだしたら止まらない私のような人間もいるわけで。
ここで、当たり前の話だが、他人が私として生きることも、私が他人として生きることも出来ない。私が私の命を生きている。そして、私の酒癖は、私が生まれつき持っているものなので、矯正することはできない。
何しろ、飲みだしたら、
『行ってきまーす(^^♪』(ワクワクドキドキ元気な声)とばかりに、別世界へと出発し、そこで何をしているのか、していたのか記憶に無く、
『ただいまーm(_ _;)m』(ゲッソリやつれて聞き取れない声)てな感じで帰ってきた日には、あちこちに頭を下げなければならないことばかりだった。
私のような酒癖の人は、断酒さえすれば、これから先、万が一の重すぎる代償を支払わなくても済む。手軽な快楽をとり続けるのか、一大決心をして、断つのか。
しかし、まー、どう生きても、人生はその人のもの。第三者が傍から良かれと思って何かアドバイスをしても、本人が気付くかどうか、ここに懸かっている。昔本で読んだか、先輩に言われたのか、誰か作家(今東光だったかも)の人生相談だったか、忘れたが、
『本人がけつまづいて、頭を思い切りぶつけて、目玉が飛び出るくらい痛い思いをして、額や鼻から血を出して気づかなけりゃ、だめだ』
という言葉の意味が、(今頃!)この歳になってよく分かるのだ。
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