今朝方、台所で皿を洗いつつ、あー、これだな、と閃いたことがある。
当たり前すぎて全然気付かなかったから、これまでブログにも書いてない、たぶん。こういうのを灯台下暗しというのかな。
大したことではないし、24時間いつでもってわけでもないが、普段の何でもない行動をしているときに、酒を飲んでいないことを思い浮かべ、感謝する癖がついている。意識して始めたわけでもなく、面白いなと、思う。
起床時;あー、よく寝たな。頭すっきりだ。(酒飲んでないからな!)
早朝の白湯を飲みつつ;ん~!白湯のうまいこと!(酒呑んでないからな!)
朝のスロージョグ;爽やかな空気、気持ちいいなあ。(酒飲んでないからな!)
駅への道を歩いて;気分も足も軽いな。(酒飲んでないからな!)
電車の中でも;読書ができるのは、楽しいな。(酒飲んでないからな!)
昼前のふとした空き時間に;あー、腹減ったな。(酒飲んでないからな!)
昼飯中;ん~、何食べてもうまいな!(酒飲んでないからな!)
街中を歩いて;あ!綺麗な花が咲いてる。(酒飲んでないからな!)
夕食時;家族で食べるとなんでもうまいや。(酒飲んでないからな!)
このブログを書きつつ;こうして文章を綴るのも。。。(酒飲んでないからな!)
就寝時;さてと、寝るか。よく動いたな、今日も。(酒飲んでないからな!)
(酒飲んでないからな!)って、しつこいよ!でも、こんな感じで、酒を飲んでないからこそ、日常生活が充実しているんだと思う。
ところで、先日の『よく生き よく笑い よき死と出会う』という本を読み終えた。興味深いことが書いてあった。皆さん、キューブラー・ロスという人をご存じだろうか。『死の瞬間』という本の著者でもある。
その中で、かなり有名な、死の受容までの5段階のプロセスというのがある。末期癌患者が、もう治癒の見込みがなく、死が間もなく訪れるとの告知を受けてから、亡くなるまでの反応である。
①否認(いや、そんなことは、絶対にない!)
②怒り(なんで、自分だけがこんな目に合うんだ!)
③取り引き(神様仏様、もう何もいりませんから、命だけはお助けを!)
④抑鬱(もう、ダメだ)
⑤受容(そうか、私は死ぬのか)
本を読みつつ、この過程が、回復の道を辿るアルコール依存症の人のそれに当てはまるような気がした。(もちろん、みなさんが全く同じ訳でもないので、これは単に私が感じただけ。)死の瞬間と違うのは、断酒は、受容したら、『生き直しの瞬間』が訪れたことになるということ。再生であり、蘇生であり、更生でもある。
①オレはアルコール依存症じゃないと否認する
②なんでオレが酒をやめなきゃならねーんだ!と怒る
③神様仏様、適量で済ませますから、飲ませて下さい、と取引する
④あー、やっぱり、一滴も飲むことは出来ないんだと、抑鬱状態になる
⑤断酒するしかないということを受容する
そして、デーケンさんは、上記①~⑤の死の受容までのプロセスに、次のプロセスを付け加えておられる。
⑥期待と希望
これは、デーケンさんがカトリックの神父でもあるので、その信仰から、死が全ての終わりではないと言う事で、追加されたのだ。
断酒の受容への5段階のプロセスも、断酒を受容して終わりではなく、断酒を継続することにより、その後の生活への期待と希望があると思う。それが、今日私が冒頭にしつこく書いてみた、生活のことごとくが、酒を飲まないことによって、どう変わるか、ということだ。どんな些細な事でも、あー、酒飲んでないから、見える、聞こえる、味わえる、話せる、覚えている、等、感謝に満ちたものに変わるのだ。
あといくつか、とっても良いことが書いてあったので、おすそ分けを(笑)
「笑いながらは怒れない」再飲酒の種、Anger(怒り)これは、私にとって一番危ないきっかけなのだが、確かに、笑いながら怒ることなんて出来ない。デーケンさんは、日常生活でユーモアと笑いを自分の心の安全弁として、また、周囲の人に優しさと愛を示すために用いなさいと、勧めておられる。
「共に喜ぶのは二倍の喜び、共に苦しむのは半分の苦しみ」ドイツの諺だそうだ。どんな状況下でも、同じ体験者同士で話し合うことが出来れば、少しは楽になるでしょう、と書かれている。私は、ブログのコメント欄でのやりとりで、癒され、力と勇気をもらった。
こんなことを日々考察しつつも、私の飲酒欲求は、ゼロにはなっていない。恐るべきしつこさである。死の宣告と違い、断酒の場合、それまでとは生活が見違えて、元気になる。すると、魔が差すこともあるわけで、やはり、再発には厳重な注意が必要だ。
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