当たり前のことだが、アルコール依存症というのは、回復はあっても治癒の無い不治の病である。
ある程度の長期間、一滴も飲まなくとも平気となろうと、常に自分がアルコール依存症であることを意識して生活していないと、どこかで綻ぶかもしれない。
私は、昨日参加したイベントで、酒造所に足を踏み入れて、日本酒の試飲をしているのを見たとき、飲みたい飲みたくない、の前に、(私は病気なので、飲んではいけないのだ)と自分に言い聞かせた。
自分の中にある病気の部分を、いつも認め、意識しているから、理性的に考え、対処出来るのだと思う。
《一病息災》という言葉がある。goo辞書によれば…
[病気もなく健康な人よりも、一つぐらい持病があるほうが健康に気を配り、かえって長生きするということ。▽「息災」は健康であること、身にさわりのないこと。]
アルコール依存症も立派な(?)病気であり、常に注意を怠ることは出来ない。
例えば、ある特定の食品にアレルギーを持っている人は、それを口にしただけで、身体に重大な異変が生じたり、場合によっては死の危険さえ迫るから、普段から厳重な注意をしているはずだ。実は、本当はアルコール依存症も、それと何ら変わらないと思うのだが、どうだろう。
せっかく酒をやめていた人が、何かをきっかけに再び飲み始めたら、既に元の木阿弥となる。酒量は元の通りか、それ以上になり、連続飲酒が始まる。潜んでいた病が、大手を振りつつ表面に出てきてしまったということだ。
かつて飲んでいて今飲まない人に、常に潜伏している病が、アルコール依存症なのだ。自分が酒量をコントロール出来ない人間であること=アルコール依存症という病なのだ。これを認め、常に意識すれば、一病息災で暮らしていくことが出来る。
病気もなく健康な人がうらやましいかも知れないが、私は、自分がアルコール依存症という病だと認め、自分の持つ一病だという前提で生きているので、常に酒に対する注意を怠らず、健康には気を配っている。
ということは、アルコール依存症という病でさえ、考え方、捉え方によっては、健康に役立つのだ。
一病息災の一病が、アルコール依存症であるならば、ただひとつ取る道が、酒を飲まないということで、それが即ち息災につながるのである。素晴らしいことではないか。
追記:息災にはもうひとつ、「仏の力で災難を防ぎとめること」という意味がある。アルコール依存症という病を認識し、唯一の回復方法である断酒をすることにより、酒に酔って自らが引き起こす様々な災いを、防ぎとめることができる。これもまた、素晴らしいことではないか。
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昨日の写真がまだあるので、何枚かご披露。
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