たまたま、ネット上で飲酒運転事故の手記を見つけた。
沖縄県警のホームページだった。「一杯の代償~悲しみと後悔のメッセージ~」という書籍を発刊したのだそうだ。その中の一部だと思うが、下記リンク先で何人もの方(加害者・被害者)の心の底からの叫びを読むことができる。
『一杯の代償』の《一杯》には、その事故の引き金となった飲酒の最初の《1杯》と、そこから酔っ払うまで飲んだ沢山の量を表す《いっぱい》と、二つの意味が込められているのだろうか。
酔ってしまうと、自分の2本の足で真っすぐ歩くことすらままならない。それだのに、アクセルを踏めば動く鉄の塊を、安全に操縦出来るわけがない。
私は、運転免許はあるが、自動車は所持していない。若い頃、バイクと車を数年運転していたことがあるが、仕事が忙しすぎて、サンデードライバーどころか、月イチドライバー&ライダーだった。その後は、もう何十年もペーパードライバー&ライダーなので、幸いにして、飲酒しての運転はしたことがない。
自分の酔っぱらい体験から考えると、飲酒運転というのは、狂気の人が凶器を振りかざすのと同じことだ。
飲酒運転者をA、被害者をBとしてみよう。
Aが好きに飲んで酔っぱらい、自分勝手に車を運転し、たまたま横断歩道を青信号で渡っていたシラフのBさんを撥ねてしまったとしよう。エタノールで麻痺した脳が状況確認を的確にこなせるはずもなく、Bさんに気付いたかどうかさえ分からない。
Bさんが死亡したとする。Bさんには、子供と妻がいたとしたら、その家族の人生が狂う。そして、加害者であるA本人と、Aの家族の人生も、その日から全く別の方向へと進む。事故の瞬間までは幸せであったかもしれないAとBさんが、飲酒運転による過失により、それぞれの家族まで巻き込んで、奈落の底に落ちる。
以前にも何度も飲酒運転についてはブログに書いたが、今日読んだリンク先の記事には、とても衝撃を受けた。
何度も書くけれど、私は、何の問題もなく酒を楽しんでいる人々に関しては、それでいいと思っている。なにも言うことがない。
ただ、アルコール依存症でなくても、酒というものは、ある一定量以上を飲むと、誰でも酔い、理性を失うことがある。成分は薬であっても、用法は薬でないものが酒なのだ。
以前も同じことを書いた覚えがあるが。。。酒と車がある限り、これからも、悲劇は繰り返されるだろう。
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