酒とタバコ。なぜ、タバコばかり一方的に悪者扱いされているのか。
別にタバコを擁護する積もりは無くて、酒の方が、その害による国家的損失は遥かに大きいのに、何ら対策が取られていない。
これは、酒を断って、飲酒礼賛とは全くの反対側へ回ってから、ずっと抱き続けていた素朴な疑問だ。
今日、たまたま、小説家・丸山健二先生のtweetを見ていたら、数々の辛辣な直言の中で、私がかねてから疑問に思っていた、このことの答えがあった。
=======↓↓↓ 丸山健二 @maruyamakenji ・ 7月22日=======
浮薄な世潮を放置しておくことは、体制側に身を置く者にとっては甚だ好都合であり、つまり、権力に抗うエネルギーを逸らすことに役立つからで、従って、いつの時代であっても、国民の馬鹿さ加減を大いに歓迎し、また、それを助長させるように仕向け、しまいには文化のレッテルを貼ってやったりする。
=======↑↑↑ 丸山健二 @maruyamakenji ・ 7月22日=======
あー、これだ!
国民が野放図に酒を飲むことを放置しているように見えるのは、体制側に身を置く者にとっては甚だ好都合だということなのだ。確かに、酒でも飲ませておけば、権力に抗うエネルギーを逸らすことに大いに役立つだろう。
これだけ、飲酒問題が日常茶飯事のように様々な形で表面化しているが、その解決に国が本腰を入れる気配は、更々ない。丸山先生のtweetにあるように、いつの時代でも、国民の馬鹿さ加減を大いに歓迎し、また、それを助長させるように仕向け、しまいには、飲酒文化にレッテルを貼ってやっているのだろう。
飲酒と言う習慣から子供たちを遠ざけるような教育が、先ずない。タバコは、肺がんの写真を載せたポスターが、学校の廊下に貼ってあったりするし、保健の時間にその人体への害について学ぶようだが。
飲酒に対する国の姿勢は、こんな感じかな。
『先ず、二十歳前の君たちは、酒を飲んではいけません。でも、二十歳になったら、大いに飲んで、国家に貢献して下さい。それで、病気になったら、医者に行けばよろしい。』
先般成立し施行された《アルコール健康障害対策基本法》は、こんなの作ってみたよ、というポーズとしか思えない。ただの飾りのような気がする。成立・施行前と、今と、世の中、何も変わっていない。
飲まなくなって日々感じているのは、人工的に合成された酒という薬物を毎日のように飲んで、酔っ払っているだけで良かったのだろうか(←過去の私)、いいのだろうか(←今飲んでいる人)と、言うことだ。
そういえば、権力に抗うエネルギーなどと言うものは、全然感じない。飲んで気持ちよくなっている分には、この平和な日本と言う国家に何も疑問を感じないのかもしれない。
これこそが、為政者の望むところなのかもしれないなー。
だがこれも、行き過ぎてアルコール依存症へと進むと、恐ろしいことに、権力への迎合も抵抗も、そんな高尚な事柄は頭からスッポ抜け、酒に抗うことが出来なくなり、ひたすら酒のみを求めるようになるのだ。もはや、大人の人間としては機能しておらず、アルコールに支配された人生があるのみ。
そんなわけで、酒をやめると、こんなことまで考えるようになる。飲み続けてアルコール性認知症になるよりは、断ってクリアな頭でこんなことを考えていたほうが、後々も、爺さんになっても呆けずに生きられそうで、実に愉快だ(笑)
鴨の母子の写真は、先日たまたま見かけた時に、コンパクトデジカメで撮影したもの。ピンボケだなぁ。でも、お母さんにくっついてひょこひょこ泳ぐ子供たちの姿が、とても可愛かった。
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