昨日の記事に続いて、酒からの解放について。
昨年(2013年)の11月11日の『君は飲むのかオレはやめたぞ(断酒242日目)』でも、ちょっと解脱について触れていた。知人に断酒を勧めてみても無意味だった事と、アレン・カー氏の『禁酒セラピー』にも、他人に断酒を勧めてはいけないと書いてあった事などが書いてある。
あれからもう一年が過ぎて、あの頃よりは今の自分のほうが更に酒から自由になっている。今は、自分が飲まないだけで、知り合いに断酒を勧めることは一切していない。
《解脱》・・・辞書によれば、サンスクリット語の訳としては、縛るものを離れて自由になる意と言う。それが転じて、悩みや迷いなど煩悩(ぼんのう)の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達すること。悟ること。涅槃(ねはん)・・・だそうだ。
ついに、私の断酒も、宗教の領域に突入したか!?と言う程の事でもない。
そんなことはなくて、酒を思いつづけても、飲まないと決めたのなら、それは無意味で有害。ならば、人生の解脱は難しいけれど、酒からの離脱なら出来そうじゃないか。と言うくらいの意味である。
仏教的な難しい意味ではなくて、サンスクリット語の訳としての、「縛るものを離れて自由になる」と言うことで良い。
自分を縛っていたものは、《酒》である。この液体に雁字搦めに縛られていて、不自由な生活をしていたわけだ。己を何重にもぐるぐると縛っていた酒と言う名の見えない縄を断ち切って、離れて、自由になる。
酒から自由になると、楽(らく)で楽(たの)しい。これは、日々実感している。昨日のようなシチュエーションで、隣でグビグビやられても、酒臭いのだけは勘弁だが、酔っ払いとはテキトーに距離を取って渡り合う事が出来る。もちろん、羨ましいなどとは露ほども思わず、そこまで飲まなければ気が済まないのかと、気の毒になるだけだ。
他人は変わって欲しくても変わらないし、変えることは出来ない。ここで言う他人とは、自分以外の人全て。家族も、そういう意味では、自分ではない。他人だ。
自分で自分を変えることは、可能であり、一番確実に出来ることだ。飲まない自分に変えて、酒から自由になる。酒からの解脱を目指す。
アルコール依存症には治癒は無く、回復のみがある。しかし、個人的に酒からの解脱は出来ると思う。本当は酒に縛られていたのではなくて、自分が勝手に酒を己の身体に縛りつけていたのである。
明日からも、飲まない日々を淡々と積み重ねるのみ。
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