今日のタイトル《酒飲みの常識は世間の非常識!》は、先日(2015年4月3日)の記事『酒はマズイし酔うからいらない!(断酒2年20日目)』に、NoSakeSince20131225さんから頂いたコメントから付けてみた。
ここで、この記事での《酒飲み》の定義をしてみる。
節度をわきまえた飲酒をいつも出来る人は、この《酒飲み》には入らない。飲んだくれ、とか、酔っ払いを、《酒飲み》としている。飽くまでも、このブログ記事の中だけの狭義の意味であるので、これへの突込みはご容赦願いたい(笑)
世の中、あっちとこっち、左と右、白と黒、表と裏、など、良い悪い、善悪は別にして、立ち位置の違いで、意見が分かれる。
酒及び行為としての飲酒に関しても、全く飲まない人、節度ある飲酒を心掛けている人、度を越した飲んだくれ、それぞれで、自分の中にある常識は違うだろう。
私は、飲んだくれ時代は《酒飲みの常識》に支配されていた。それが、今は《世間の非常識》だったことを悟っている。
《酒飲みの常識》とは、当たり前に酒を飲むことを日常としている人が持っている常識である。とことん酔うことを目的に酒を飲むのが、常識。下手すると、飲まない人にも飲ませて、自分と同じように酔わせようとするのも、常識。
恐ろしいことに、私は本気で、「酔ったまま死ぬのは本望」と考えていて、飲み友達ともそんな話をしていたことがある。
良く行く、かなり古ぼけた居酒屋があって、そこは昭和初期に建てられたような、木造の、ちょっとでも火が点けば、マッチ箱のように燃えてしまいそうな、そんな建物だった。
酔っ払って良く話したのは、
「ここでさ、火が出て、酔っ払ったまま死んじゃっても、本望だよねぇ」
なんて、今考えると、大馬鹿野郎な会話をしていたものだ。
その他いちいち挙げないが、酒飲みの常識と言うものは、全くの正反対、つまり非常識だと言う事が、酒をやめて暫くすると、良く分かるのだ。
そもそも、果てしなく酒を飲んで酔っ払うことが既に非常識である。泥酔して自分が自分でなくなってしまうことも非常識である。翌日が、トンデモナイ二日酔いによって潰れてしまうのも、非常識である。
なんとまあ、私は《世間の非常識》をば《酒飲みの常識》として、飽きもせず繰り返して来たことだろうか。呆れて物も言えない。
そんなわけで、断酒に目覚めた人は、酒飲み時代の常識を捨ててしまおう!
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