寄る年波に勝とうとは思わず、逆らわず、飽くまでも自然体で、老眼とド忘れに慣れつつある今日この頃。
人生の時間が残り三分の一ほどになって来たが、人間は生きている限り、前進するのだ。実際のところは、たった今、急病や事故で終わるかも知れない儚い人生なのだから、残り時間など考えず、酒井雄哉大阿闍梨のおっしゃるように「一日一生」で生きるのが良い。
(などと格好いい事を書いたけれど、飲んだくれ時代にかなり後退しているので、私の場合、♪一歩進んで二歩下がる、の逆で♪二歩下がって一歩進む、だろうから、全然進んでないかも(笑))
素朴な感覚なのだが、酒を断ってから、こうしてちゃんと生きている、ただこれだけの事が嬉しい。その上、あらゆるものに興味が湧き、常にアンテナを張って、どんなモノ、人、動植物からでも何か学んでやろう、と、キョロキョロしている(笑)
さて、本日の学びの収穫は??
電車の内側の、ドアの横辺りに貼られた四角い広告スペースを見るともなく見ていたら、
「自由は、厳しいレッスンの先にある。」
との、某英会話学校のコピーが目に飛び込んで来た。
下車する寸前に気付いたので、その他の説明は読んでないのだが、この学校のキャッチコピーの「自由」とは、英会話を楽しめる自由だろうか。
翻って、このコピーから私が閃いたのは、酒からの自由も同じことだと。
あれから2年数か月。私は酒から自由になった。酒の呪縛から解放された。もちろん、やめてすぐ自由になったわけではなくて、やめた直後は、酒が飲めないことを、とても不自由に感じていた。
酒から自由になりたいのなら、酒を飲まない日々を送ることを自ら望み、飲みたいのに飲まない生活に浸る、「厳しいレッスン」を繰り返さなければならない。来る日も来る日も、レッスンである。ただ酒を飲まないだけなのに、とても厳しいレッスンである。
レッスンをサボるのは、とっても簡単だ。プシュッとプルタブを開けて、ゴクゴクしてしまえば、ハイッ!レッスン中断。(レッスンはいつでも再開できるけれどネ!)
酒からの自由は、自分自身の中にある。
しかし、それを見出すには、磨かなければならない。「玉磨かざれば光なし」である。まとわりついた酒を振り落して、日々自分を磨くことが、厳しい酒断ちのレッスンになるのかな。ピカピカになって来る頃、酒からの自由を感ずることだろう。
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