ある人に、茨木のり子さんと言う詩人を教えて頂き、今日、図書館で本を借りることが出来た。
『倚りかからず(茨木のり子 著/ちくま文庫)』より
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倚りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
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この詩を、読んで、なるほど!と思い、更に何度も読んで、ますますなるほど!と思い、一気にこの詩人・茨木のり子さんのファンになってしまった。
できあいの思想・宗教・学問、それに権威。これらに左右されて、思うがままにならない時の逃げ道として、酒があったようにも思う。
しっかりと自分の足で立ち、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の頭で考えて、自分が下した結論で生きて行くのが一番良い。と言っても、我がままに、自己中心的に生きる、と言う意味ではない。
《飲酒文化》なるものも、出来合いの思想に過ぎず、そんなものを信奉して酒が飲めるだの飲めないだの、酒が強いだの弱いだのと右往左往すること自体、バカバカしいことである。
とは言え、酒に限らず、何かに倚りかかりたいのが人情であり、倚りかかっていたほうが精神的に楽であることも確かだ。
倚りかかる、頼る、当てにする。
子供は親に倚りかかり、頼り、親を当てにしなければ生きて行けない。が、大人は自分の足でしっかりと大地を踏みしめ、生きて行くしかない。
ここで、話は全く変わる。
全く突然だったが、日中、真夏のような太陽の下を歩いている時に、ふとビールの喉ごしが脳裏を過ぎった。何と言うか、子供の頃自転車に乗れたら、数十年乗っていなくても、乗れる、の酒版みたいなもので、いつだって、何をきっかけに飲んでしまうか分からない。
太陽で思い出したのは、カミュの小説「異邦人」。主人公は、殺人の理由を、「太陽がまぶしかったから」と、法廷で述べる。
私も、「太陽がまぶしかったから」 飲んでしまった!なんてことにならないように気を引き締めていないと...
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