昨日(2016/5/30)の記事に頂いたコメントが、気になり、今日は、それについて書いてみる。
酒を飲みつつも、やめたい、けれど、飲み続けたい・・・これぞ、葛藤である。一緒に生活をしている人から、断酒のリクエストを受ける。原因は、酒を飲むと人が変わり、ケンカが絶えないとのこと。
やめたとして、これから先、一生酒を飲めなくなるのが辛い・・・この気持ち、とても良く分かる。何しろ、やめる気すら起こらず飲んでいる時は、正に酒に心が奪われ、酒が我が生活の中心であるから。酒の無い生活など、考えられないのだ。
私もそうだったし、断酒仲間の方も、全く同じで、昨日まで毎日飲んでいた酒を、今日からあっさりと断つことが出来る人はいない。アルコールは依存性の強い薬物なのだから。
私が今日、ズバリと書きたいのは、酒を飲み続ける道を選んだとして、さて、酒がこれから3年先、5年先、10年先・・・の将来、あなたに何をもたらしてくれるだろうか、と言うことだ。
飲み続けることによって、日々心地良い酔いを与えてくれるかもしれない。が、きっと飲む量は次第に増え、悪酔いへと変化してゆくだろう。いつもほろ酔い程度で終わる飲酒ならば、やめる必要は無いはずだから。
典型的な酒害者のいる家族では、飲酒問題を抱える主人公は、《酒》をとるか、《家族》をとるかの二者択一に於いて、《家族》を置き去りにして《酒》をとっているのである。
3年、5年、10年と、そのまま飲み続けた場合、酒は何をもたらすだろうか。本人は身体のあちこちが酒によって傷害され、健常者ではなくなってくる。それを見守る家族も、精神的・肉体的に追い詰められる。酒がもたらすものは、悲劇以外の何ものでもない。
目先の快楽を捨てられず、ズルズルと断酒を先延ばしにすると、傷口が広がるだけで、何も良いことは無い。
問題に気付いた時点で酒を断つ決意をするならば、傷口が小さな内に治癒へと向かう。
酒を断つのが辛いのであれば、既にアルコール依存症である。どうするのがベストだろうか。断つのがベストである。
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近所の無人販売所にあった、「ツタンカーメンのエンドウ豆」。
本当かどうか、ツタンカーメンの墓を発掘した時に、見つかった豆らしい。
で、豆ごはんにするのが一番うまいというので、炊き込んでみて、家族には、
「これは、ツタンカーメンのエンドウ豆と言ってな・・・」と講釈を垂れてみたが、家族の反応は・・・
「これ、普通のエンドウ豆と何も変わらないじゃん」
ガーーーン!
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