私は、今現在(2016/6/22)、酒監獄の囚人から開放されてから3年4ヶ月目だ。
酒を《飲む》とか《飲まない》とか《飲みたい》とか《飲みたくない》の前の、もっと根本にあること、これについて、最近考えている。
酒を飲んでいる人の中で、やめられない人たちは、自分では飲んでいる積もりかもしれないが、実は、飲まされているのだ。
タバコも然り。喫煙している人たちは、自分でタバコを吸っている積もりかもしれないが、実は吸わされているのだ。
一体全体、何を言ってるんだ?意味が分からないぞ!
簡単に表現すれば、それ(酒やタバコ)なくしては、自分の日常生活が成り立たないような、依存性を持つ商品を広めて、どっぷりと浸からせる戦略に、私たちはしてやられているのである。
誰がそんなことをしているんだ!?...については、書かない。想像して頂きたい。
酒は、最初は自分で飲むのだが、ある時点から飲まされている。《飲む》と《飲まされる》は、全く違う。ここで、あなたが酒を自らの意思で飲んでいるのか、自分以外の誰かに飲まされているのか判定してみよう。次のたったひとつのことが出来るかどうかで、それは分かる。
☆明日から丸3日間、一滴も酒を飲まない。
どうだろうか。これを平然と出来る人は、自らの意思で酒を飲んでいる人なので、断酒とは無縁である。「え!えぇ~ッ!無理!」と、実行する前から動揺しているようならば、もはや自分の意思とは無関係に酒を飲まされているのだ。
酒がどこにでもあるから、飲みたくなる。このジャンキーな飲みものが、どこでも簡単に買えるような仕組みになっていること自体を、私たちは疑ってかからなければならない。
酒ならば、飲まざるを得ない人々、タバコならば、吸わざるを得ない人々。これらの人々は、それらのジャンキーに仕立てられ、生きている間利益をもたらしてくれる、リピーターとして期待されているのだ。
特に酒。
一度その味と酔いの感覚を覚えれば、何度でも経験したくなり、酒なしでは居られなくなる。そうなったら、なかなかやめられない。飲んでいるのではなく、飲まされていることに気付くことが、断酒への一歩である。
『楽しみに 飲んでたはずの 酒なれど 今となりては やめる能わず』
(たのしみに のんでたはずの さけなれど いまとなりては やめるあたわず)
『やめたくも つい手が伸びて グイと飲む 制御不能の 恐ろしき罠』
(やめたくも ついてがのびて ぐいとのむ せいぎょふのうの おそろしきわな)
『飲んで吐き 吐きながら飲む おぞましさ 飲みたくもなし 酔いたくもなし』
(のんではき はきながらのむ おぞましさ のみたくもなし よいたくもなし)
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