今日の記事は、女将さんからのコメントがとても気になって、書いてみた。
私が引っかかったのは「ちゃんと底つきをしていない」「ちゃんと底つきをした方がよいのか」との表現。
これは私の考えに過ぎないので、反論されても困るが、そもそも「ちゃんとした底つき」などと言うものは無いし、断酒に「底つき体験」が必須でもないと思っている。
ここで飲酒とは全く関係の無い話に例えてみる。
相場をかじった人ならば分かるはずだが、株価には底値と言うものがあり、そこで買って、今度は高値で売れば、一番儲かる。
だが、底値も高値も、その時には誰にも分からず、後から振り返って、あ~、あそこが底値だったんだな高値だったんだな、と気付くもの。最初から底値や高値が分かる人はいない。
酒の底付きも同じで、飲んだくれてとんでもない生活をしている最中では、底にいるのに気付かない。何かでふと断酒を思いつき、やめるには底付き必要だからと、「底付き体験」をしようとして、本当に奈落の底に落ちてしまったら、どうするのだろう。底に沈んだまま這い上がれないことだってあるだろう。
今年(2016)の6月に書いているが、酒の一番のやめ時は、自分の飲酒に悩んだ時だ。少しでも自分の飲酒に悩んだなら、そんなものはやめてしまえば良いのだ。わざわざ悩みの種を撒いて育てるのは、馬鹿々々しい。
2016/6/23
『悩んだ時がやめ時(断酒3年101日目)』
悩んだ時がやめ時。どん底まで飲み続けて、底付きを経験する必要などない。底付きの底は、人によって異なる。どこが底なのか、定義などない。振り返って、あそこが自分のどん底だったんだと思うところが底なのだ。
もし、這い上がれないほどの深い底に沈んでしまったなら、浮上することが出来ず、アルコールに溺れたまま人生を終わることになるかも知れない。その前に気づいてやめた人が、アルコールの害が一番少ないのだ。
アルコールだけではない。タバコだって、例え一日に数本しか吸っていなくても、やめたほうが良いわけである。酒の底付きを経験してから断酒しようと言うのは、あたかも、タバコをヘビースモーカーになってからやめようと言うのと同じではないか。
底へ近づけば近づくほど、逆にやめるのが困難になるのだ。怪我で負った傷が、深いほど治りが遅いのと同じである。傷が浅いうちに治療すれば、治りも早い。酒に悩んだ時がやめ時とは、そういう意味である。
入院治療を受けたアルコール依存症患者の、退院後の回復率は20%とも聞く。つまり、底へ近づいた人の再飲酒率は80%と言うことになる。実際の数値は、各種の統計値によって異なるが、本当はもっとシビアな数値なのでは、と思っている。
短歌もどきを詠んでみたが、着底した人の進路は、次の内のどちらかだろう。
『底を見て 天を見る気が 失せたなら もはや沈んで 座して死を待つ』
『底を見て 天を見る気が 湧いたなら 後は断酒で 別の人生』
※読者通信のお知らせ。久しぶりになよくんからも来てました。編集が滞り、今回はまとめて、UP!
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