『断酒とは 先ずは自ら 気付くこと その胸中に 宝出現』
断酒の気付きは、お金を何億円何兆円積んでも、自分の胸に現れることはない。これまでさんざっぱら大枚をはたいて酒を飲んできた人が、自分の酒に問題があると感じた時に、訪れる。
この「気付き」だが、断酒に於いては、一種の「悟り」であり、またある種の「諦観」とも言える。
断酒生活を始めたことによって出現した宝は、自分だけの断酒の賜物。どこにも売ってないし、誰から譲ってもらうことも出来ないし、どこかの山奥にあるものでもない。
その宝は、最初は不格好で路傍の石のようだが、飲まない日を積み重ねつつ、磨いて行けば、やがて光を放ち、更に磨けば磨くほど、キラキラと輝きを増す。
ブログにコメント下さる方、オフ会でお会いした方、また、もちろん日々読んで下さっている方も・・・皆さん、自分と酒との関係について気付いた方々である。それぞれの方の胸の中に、色も形も大きさも輝き方も他の人とは違う、自分だけの断酒の宝物がきっと輝いていることだろう。
ところで、何百万人もいる飲んだくれ(アル中)の数に対して、自らの飲酒の問題に気付いて酒を断つ人は、何パーセントくらい存在するのだろうか。
以前、新約聖書の有名な言葉をタイトルにして記事を書いたことがある。
2013/11/27
『狭き門より入れ(断酒258日目)』
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マタイによる福音書7章13ー14節。
「 狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者すくなし。」
同じく7章7-8節。
「求めよ、さらば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。」
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飲んだくれ(アル中)を念頭にこの文章を読むと、実にその通りではないか!
飲んだくれを続ける、つまり滅びに至る門は大きく、その道は広い。実にたくさんの人が歩いている。
断酒に踏み切ることは、狭き門である。断酒を継続することは、更に狭き門である。断酒の道を見出す人はかなり少ない。
自ら求め、尋ね、門を叩けば、断酒の門は開かれる。求めれば得られ、尋ねれば見出し、門を叩くものには断酒の道が開かれるのだ。
断酒で得られた宝物は、自分の胸の中にあるだけではない。もうひとつは、これも、決してお金を何兆円と積んでも得ることの出来ない、とても貴重な宝物、断酒仲間だ。志を同じくし、一生断酒を共にする仲間。
正に、気付いた人だけの宝物ではないか。大事にしよう!
(家の近所で、昨日撮影した彼岸花。一足先に、もう秋のようだ。)
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