現在、自分から酒を追放して、4年6ヶ月が過ぎて、明日から4年7か月目に入るのかな。
今日のかみさん(妻)とのみすけ(私)の会話。今の心境が伝わるかな~
妻:「お酒を飲みたい?」
私:「全然いらない。と言うか、もう、酒は迷惑かな~オレには」
妻:「迷惑?」
私:「ほら、タバコの煙と同じだよ」
妻:「なるほど、例えが分かりやすいね!」
煙が出て来たので、これを使っている言葉で、煙たい(けむたい)とか、煙たがられる(けむたがられる)との表現がある。私には、酒は煙たい存在であり、酒は私に煙たがられているのだ。
酒好きの飲んだくれの存在も全く同様で、私には、飲んだくれどもは煙たいし、飲んだくれどもは私に煙たがられている。
これほどに酒が自分にとって不要なものとなってしまった今、断酒直後の苦しさは、錯覚に過ぎなかったような気がする。酒をやめた人は、飲みたい酒を我慢しているのだから、飲酒欲求を苦しむのが当たり前、いや、寧ろ、そうでなければ断酒ではない、みたいな思い込みが激しかったような。
そんなことはない!辛かったのは確かなことだ、けれども。
《錯覚》もどういうわけか、過去記事には沢山使っている。中でも、《錯覚》をタイトルに入れた、この記事は、読み返してみたけれど、正にその通りだな~と、思った。
2014/5/30
『錯覚を売り幻想を買う(断酒1年77日目)』
造って売る側は飲んだくれに《錯覚》を売り、買って飲む側は《幻想》を飲んでいたのだとすると、辛かったことさえ、実は錯覚だっとしても、あながち誤りとも言えないのかな。
薬物アルコールを介した、合法的な《錯覚》&《幻想》の売り買いが、酒の本質なのであって、飲めば飲むほど空しくなることがそれを証明している。二日酔いの不快さは残るけれども、何かズシリとした重みのあるものは何一つ残らないのが、飲酒の結果であろう。
こう考えてみると、断酒当初、辛かったのは事実かもしれないが、何と言うか、酒如きに人生の辛さを感じたなんて、今となっては、何とも馬鹿らしいのだ。
《幻肢(げんし)》をご存知だろうか。
事故や病気で手や足を失った人が、存在しない手や足を感じ、動かすことが出来、そして痛みも感ずることがあると言われる。これを幻肢と言う。
断酒の辛さは、幻肢に似ているような気がする。もう、失ってしまって実態が無いのに、それがあたかもあるかのように、私の心を苛んだ。よくよく考えて見れば、その痛みの実態は、最早飲むことをやめた、酒なのであった。
断酒の辛さをあれこれと思考してみたが、こんな風な捉え方も面白かったかな。
*広告
↓↓↓※コメント欄は、承認制にしています。すぐには反映されませんが、必ず、読んで承認しますので、お待ち下さい<(.".)>
(まことに勝手ながら、コメント内容によっては、承認の前に、削除することもあります)