思い立てば、たった今からでも出来る。それが、断酒だ。ただ、酒を飲まないだけだ。
だが、飲んだくれの脳には、飲酒が当たり前のことであるとの刷り込みが成されているので、断酒を思いつくことは、殆ど無い。
飲んだくれならば、いつでもだれでも始められる断酒だが、狭き門なのか。
狭き門と言えば、「狭き門より入れ」。
(マタイによる福音書第7章第13節)
私は、聖書の言葉が好き。同じように禅の言葉も好き。
聖書は、キリスト教、禅は仏教で、宗教で考えると、その教えは別物であるが、古来多くの人が帰依しているわけで、その教理には生きていく上での真理が散りばめられている。
断酒は、宗教ではないけれど、精神修養の一種に近いと、私は考えている。それまで病的にしていたことを、ピタリとやめる。それを継続する。断酒とは、たったこれだけのことながら、いざ実践してみると、これほどに安定までの道程が辛いものも中々無いのだ。
さて、以前にもブログで書いたことがあるけれど、聖書では、狭き門より入れ、と言っている。
2013/11/27
『狭き門より入れ(断酒258日目)』
が、禅では、大道無門である。これは中国の宋時代の禅僧・無門慧開の『無門関』の中の、「大道無門、千差路有り。此の関を透得せば、乾坤に独歩せん」から来ている。
大道を断酒道に読み替えて意訳すれば・・・
断酒道に入るには、特に門は無い。その門はあらゆる路(みち)に通じている。ゆえに、この無門の関を通過して断酒道に至ったならば、その人は堂々と天下を歩くことが出来る。
狭き門と、大道無門。これを並べて論じる人もいないだろうけれど、私は、これを並べてみて、少なくとも断酒に於いては、同じ意味だと考える。
本来、酒飲みならば誰でも入れる「大道無門」なのにも関わらず、そのことに気付く人が極端に少ないので、その門を通過する人の数に合わせて、門が狭くなっているだけなのだ。
大道無門の断酒道に歩を進めたならば、この禅語の示すように、本当に堂々と大手を振って酒から独立独歩して歩けるのだ。この、酒から解放されて自分の足で大地を踏み締めて歩く感覚は、断酒した人ならば分かるはず。
実際には、断酒道は独歩ではなくて、多くの仲間とワイワイガヤガヤ楽しく歩いているわけだけれども。
断酒するのに、どこにも関門は無い。関門があるとすれば、それは、やめたくないと思う自分の心である。先ずはそこを通過して、断酒道へと入って歩き出してみることだ。
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