「目から鱗が落ちる(メカラウロコガオチル)」
これは、何かのきっかけで、良く分からなかったことが、明確になったり、頑なに信じていたことが、実は全くの間違いであったと悟ったりすることだ。
この故事成語の出典は、新約聖書の使徒行伝(使徒言行録)の第9章。
詳しくは、インターネットでも読めるので、読んで頂くとして、ざっと書くとこんな感じだ。
使徒パウロは、最初キリスト教会を迫害する側だった。
ある日、キリストの声が聞こえた時から、3日間、何も見えず何も食べなかった。
キリストに使命を受けたアナニヤと言う人が、パウロの頭に手を置き「兄弟パウロよ・・・」と文言を伝えた。
すると、パウロの目からうろこのようなものが落ち、すぐに目が見えるようになった。
ただ目が見えるようになったのではなくて、この時、パウロは、キリスト教会を迫害する人から、キリスト教を述べ伝える人に変わっていた。
目から鱗ではないけれど、私は、自分と言う人間から酒が落ちた。落ちるまで1年はかかったけれども。
「落ちた」意味は、くっついていたものが取れた、病気・憑き物が除かれたこと。
酒に堕ちていた自分から、酒が落ちると、人生がきらきらと輝きだす。
私がブログ更新を毎日続け、メルマガも出して、断酒仲間の方との交流を楽しんでいるのは、それまで飲んだくれていた人から酒が落ちて、その人の人生が輝きだすのが分かり、単純に嬉しいからである。
但し、酒の鱗(ウロコ)は、すぐには取れない。最低でも1年はかかる。けれども、これ、酒の鱗が落ちてしまうと、今までの酒への執着や思い入れは一体何だったんだ!と、不思議な思いをする日が来る。
外見は同じ自分でも、酒が落ちたことによって、中身が変わったのだ。
困ったことに、一度落ちた酒の鱗は、何かの拍子にまたくっつくことがある。落ちるまで1年もかかるのに、再度くっつくのは、ほぼ一瞬である。クイッと酒を飲んでしまえば、あっと言う間に酒の鱗がくっつく。
酒の鱗で周囲に酒しか見えなかったのが、それが落ちると、今までふさがれていた視野が広がり、あらゆものが新鮮に見える。
私は、道端に力強く生えている雑草の花まで目に入り、愛おしく感じるようになった。
最初の一年間は、道を歩くと目に入る花々、雑草から、どなたかが丹精込めて育てているものまで、写真を撮りまくっては、ブログにUPしていた。
いつだってそこにあるのに、酒の鱗によって見えなかったものが、断酒によって見えるようになるのだ。
物理的に存在するものばかりでなく、家族の愛情など、他の人の自分に対する思いやりに気付くことも、しかりである。
酒の鱗が落ちると、飲んだくれ時代には見えなかったものが見え、感じなかったものを感じるようになるのだ。
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