私は、字数に制限のあるTwitterが大好きだ。
断酒以来、ふと気付いたら、すぐにtweetしている。
ひたすら酒を飲んで酔うだけの《飲酒教》は、人を幸福にするだろうか。
— 断酒男爵 (@anomiyakun) 2018年2月12日
酔っている本人の頭の中にだけ、偽の幸福は出現するけれど。
アルコールが人類を不幸にしていることは、歴史的にも明白で、しかも現在進行形の事実である。
だが、多くの人は、この《飲酒教》に洗脳されたまま、一生を終わる。
多くの人が何も考えずに酒を飲んでいる。
それはまるで《飲酒教》なる宗教のようである。
さて、《飲酒教》の実体であるアルコールだが、この薬物は、人類を幸福に導くのだろうか。
幸福?
とんでもない。tweet内でも言及しているけれど、酒は、飲む人の脳の中でスパークし、偽の幸福を見せてくれるだけだ。それも、アルコールの薬理作用の時間だけだ。
何事も無く酔いが醒めれば良いが、酔って自分がどこかへ飛んでしまっている内に、飲酒運転をやらかしたり、人を傷つけたり、自分が傷ついたりする。
あまつさえ、毎日の飲酒によって、酒がないと生きられない、アルコール依存症になって、一生を酒に支配されてしまう人もいる。
私は、アルコールが自分だけでなく、家族をも不幸にすることを自覚したので、断酒した。
飲んでいる頃は、酒は自分のパートナーであり、一生添い遂げる積りだったから、断酒は180度の思考の転換だった。
アルコールは、人を不幸に陥れる。飲酒する習慣は、自分にとっては、何の益も無い上に、害ばかりの恐ろしい儀式である。
やめたいと思いつつ、酒をまだ飲んでいる人。
やめてはいるけれど、酒に未練があって、我慢の断酒をしている人。
酒は、アルコールは、自分と家族を幸せにするだろうか。それとも、自分と家族に害を及ぼすだけだろうか。良く考えてみてほしい。
幸せにすることと、害を及ぼすこととの、両方を満たすことは絶対にない。
自分と家族を幸せにしているならば、そのまま飲酒を続けても良い。
自分と家族に害を及ぼし不幸にしているならば、断酒を選ぶことだ。
今宵も多くの人が酒を飲み、自分と家族を不幸へと導いていることだろう。
断酒間もない頃は、酒を断ったことこそ自分にとっては不幸なことなのではないかと、錯覚する。
飲みたいものを飲めないことは、不幸なのではないかと、酒を断ってしまった自分を疑う。
そんな時こそ、断酒の原点に戻り、断つことを選んだ自分を信じてほしい。
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