本日も、関東地方は梅雨明けの猛暑日だった。
せめて写真だけでも、何かひんやりとした感じのは無いかな?
そうそう、2年前の12月に、北海道は札幌でオフ会をやったのだが、その前日に小樽に泊まり、オフ会当日の朝から、歩き回ったことを思い出した。
あの時撮ったつららの写真なら、見るだけでひんやりするだろう。
その他の写真を見ながら、あの時の小樽の寒かったことが、身体の記憶として蘇って来た。
今日のような真夏日に、まざまざと思い出すことの出来る、極寒の小樽。それは、自分があの時に実際に行って、体感しているからである。
真夏日の東京と、真冬の小樽。暑ければ、寒い日が恋しいし、寒ければ、暑い日が恋しい。気温が30℃を越えれば、マイナスの地が恋しい。気温が零下の日が続けば、ギラギラの太陽が恋しい。
それで、思ったのは、アル中の両極端である。つまり、断酒したアル中と、飲み続けるアル中。同じアル中でも、両極端である。
飲酒していても、断酒したい。断酒していても、飲酒したい。
春夏秋冬の四季を体験的に知っているのと同じで、断酒したアル中は、飲酒をももちろん知っているので、飲酒が恋しい。
一度断酒して、再飲酒してしまった場合は、今度は、断酒が恋しい。
季節と違い、飲酒か断酒かは、自分で選ばなければならない。
飲酒を選ぶのは、簡単である。酒を飲んで酔うだけだ。そこには、人生の展望も、周囲の人への配慮も、何もない。ただ、自分だけの世界に浸るだけ。
断酒を選ぶのは、困難である。決断が必要だし、継続のためには、己を鼓舞し続けるモチベーションが必要だ。
けれども、例えば、飲酒を選んだ人と、断酒を選んだ人との、今から一年後を考えてみたらどうだろう。
酒を断たねば、と思いつつも飲んでしまった一年間と、辛くはあっても断酒を決意して飲まなかった一年間と。それぞれ、両極端の生活の一年間である。
断酒の一年間と飲酒の一年間、経過した時間は同じでも、人生の中でのその重み、位置付けは、全く異なる。
もちろん、断酒の一年間は貴重であり、残りの人生のための礎(いしずえ)となる。片や、飲んだくれの一年間は、ただそれまでの過剰飲酒を繰り返したに過ぎず、無意味どころか、自分だけでなく家族にとっても害悪な時間の経過となったことだろう。
断酒と飲酒は、酷暑と極寒の両極端のようである。
酷暑と極寒の間には、春と秋の、ほどよい気候の日がある。
だが、アル中にとって、断酒と飲酒の中間点は存在しない。
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