孤独な断酒の反対に、和気あいあいの断酒有り。
孤独な断酒は続かないと、先日書いたけれども、従前から主張している通り、断酒のやり方は個々人の好きなやり方が優先されるべきなので、それでも孤独を選ぶ方は、もちろんそれで良い。
その先日の記事へコメントを下さった《バカです》さんのように、人付き合いが苦手で、特に断酒仲間を作ることなく、断酒を継続されていらっしゃる方の存在を知って、断酒のやり方は人それぞれ、その人に合ったやり方で、OK!との考えを新たにした。
バカですさんは、見た目はお一人で断酒されているけれど、このブログを日々読んで下さって、断酒の杖とも糧ともして下さっているとのこと。心の中では、のみすけや、ここに集う断酒仲間とつながっているのだと感じた。
なので、精神的には、孤独とも言えないのではないかな。
さて、ここからが、今日の本題。
仲間を作ることが苦手でも、一度仲間の輪に入ってしまうと、その居心地の良さに驚くかもしれない。このことは、断酒仲間の場合、特にそう感じられるはずだ。
私の場合がそうで、孤独な断酒から始めて、徐々に断酒仲間を増やして、今の沢山の断酒仲間に囲まれた生活に至るわけである。なので、自分の経験から、断酒の仲間の存在がとても大事だと、強く主張出来る。
私は、断酒仲間のことを特に「朋(とも)」に字を当てて、「断酒朋」と称している。
朋とは、肩を並べる同僚。同門の仲間。同類の集まり。
傍から見たら、ただ酒を断つ生活を一緒に送っているだけで、取り立てて何かを特別に学んだり、修練しているわけでもない。
精神的なつながりなのだと思う。自分は酒を飲んでないけれど、仲間も飲んでない。みんな、飲んでない。自分だけがやめているわけではないんだ。と、こんな感じだろう。
切磋琢磨とは、仲間同士互いに励まし合って向上すること、だそうだ。
断酒の切磋琢磨はまことに素晴らしい効果を発揮し、ある期間経過すると、確かに向上していることが分かる。
これを、断酒ではなくて、飲酒で考えてみると、全く当てはまらないことが分かる。毎日一緒に飲んだくれても、何一つ向上することはない。精々が、酒造メーカーと、国から感謝されるだけだろう。
『断つならば 断酒の朋と 伴に断て 効果倍増 効き目てき面』
久々の断酒短歌でに仕立てるとこんな風になるかな。
真の断酒の朋は、自分が苦しんで来た経験を大切にしているから、相手の苦しみも良く分かる。だから、思いやりがある。
持つならば、断酒の朋である。
*広告
↓↓↓※コメント欄は、承認制にしています。すぐには反映されませんが、必ず、読んで承認しますので、お待ち下さい<(.".)>
(まことに勝手ながら、コメント内容によっては、承認の前に、削除することもあります)