昨日の記事の最後に、夏さんと言う方のコメントへの返信を書いた。
なかなか時間が取れず、個別のコメントへの返信は、数年前からやめてしまっている。なので、今回のように、切羽詰まった方からのコメントに関しては、記事の中で取り上げるようにしている。
これまで、コメントやメールで多くの方から、アル中に関しての悩みを頂いた。私自身がアル中当事者であるので、本人の悩みは良く分かる。
もっと広く深く、アル中とその周辺に関して鑑みるならば、アル中がひとりいる時に、最も辛いのは、本人ではなくて、家族なのだ。
そのことを、以前に、こんな記事にしている。
上の記事の最後に、こんなことを書いている。
『酒害者を見守る家族にしてみれば、本人が酒の真実に気付いて、心からの断酒をしてくれるのが、最高の解決方法である。』
私自身がそうだったので、全く以って面目ないのだが、一人の飲んだくれが酒を断つには、周囲がどんなに騒いでも、酒害者に教え諭しても全く無意味なのだ。
断酒へと歩を進めるためには、飲んだくれ本人が、気付かないとダメなのだ。
アル中の回心が必要なのである。
回心とは、コトバンクの日本大百科全書(ニッポニカ)の解説では・・・
「えしん」ともいう。既往の価値観が崩れ、まったく新しい価値の誕生により人格(パーソナリティー)の構造が変化すること。その意味で自己の新生ともいう。
これだ!
自分のアルコール依存症であることと、酒の害悪に気付く。
自分がこれまで愛して止まなかった酒なる飲み物が、実は自分を苦しめ貶めている最悪の飲み物であることを理解する。
断酒を決意し、実行することにより、全く新しい自分になる。
だが・・・
アル中本人が回心するには、周囲の働きかけではほぼダメで、本人の気付きを待つしかないのだ。家族からすると、かなり歯痒いことである。
回心と言えば、パウロの回心が有名である。
キリスト信者を迫害する急先鋒だったパウロに、キリストが現れ、
「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」
との声と共に、急に眼が見えなくなった。
一方、アナニアというキリスト教徒に神が現れ、パウロの為に祈るように告げる。アナニアがパウロのところへ行き祈ると、パウロの目からウロコのようなものが落ちて、目が見えるようになった。
え!そんなことだったの!と、それまで分からなかったことがクリアになって、パッと理解できることを、「目からウロコが落ちる」と表現するけれど、新約聖書のこのパウロの回心から来ている言葉だ。
アル中の回心は、本人の貴重な気付きであり、目からウロコなのである。アル中が100万人いても、回心する人は数人かもしれない。
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