パルティータさんのコメントから、以前書いた記事『不飲酒戒』を思い出した。
仏教には、五戒と言って、在家の信者の守るべき五つの戒めがあり、その中に、酒を飲んではならぬ、不飲酒戒(ふおんじゅかい)もあるのだ。
在家の信者が守るべきことは、もちろん、出家した僧侶も守らねばならない。が、日本では、酒を飲まない坊さんなど、聞いたことがない。
(禅寺で厳しい修行をする雲水は、酒など飲まないのだろうが、私の言う坊さんとは、いわゆる葬式仏教の坊さんである。)
タイトルに入れた般若湯(はんにゃとう)をご存知の方は、中々に仏教の通かもしれない。
僧侶たちの隠語で、酒のことを般若湯と言うのだ。つまりその、表向きは飲んではいけないことになっている酒を、いやいやこれは酒ではないぞ、般若湯という有り難い飲み物だと、こじつけているのだ。
尤も、仏教と言っても、これは日本での話であって、例えばタイなどでは、僧侶はきっちりと戒律を守っているそうだ。
大乗仏教、小乗仏教の違いはあるかもしれないが、根本を辿れば釈迦に至るわけで、同じもののはずだが、酒の悪魔的な魅力には、坊さんも抗えず、何とか飲む工夫をしたのだろう。
私たち酒を断っている人間が、再飲酒してしまう時、心の中で悪魔の囁きが聞こえるのではないか。
それは、再飲酒への扉を開く、様々なこじつけの理由である。
仏教の看板を背負って立つ出家した坊さんでさえ、貴い戒律の不飲酒戒など踏みにじっているのである。
酒の魔力は、私たちに、もの凄い力で再飲酒を迫って来ることがあるのも頷ける。
イスラム教でも飲酒は禁じているし、キリスト教でも禁じているわけではないが、大酒を飲んで酔うなとは言っている。
ただ、宗教がその教義で飲酒についてとやかく言っていても、信者たち、更には宗教の指導者でさえ、酒を飲みたくてたまらないのだ。
酒を飲んで酔うことの、つまり、薬物アルコールを摂取することの魅力は、古今東西、地球上のあらゆる人々を惑わして来たのである。
酒とは、なんと罪な飲み物であるか。
酒はアルコールそのものであって、断じて《般若湯》などと呼び名を変えたからと言って、中身が変わるものではない。
酒が人間にとって害のある飲み物であることは、永久不変の事実である。
飲んで酔いたいがために、理由をこじつけてしまうのが、弱い人間である。
そこを乗り越えて、酒から離れて生活出来るかどうかが、断酒生活のキモだ。
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