酒なんぞを打ち捨てて、毎日クリアな頭になってから、早や6年6ヶ月目に入っている。
今朝も、いつもの時間にラジオを聴きながら、ポールウォーキング。
シャカリキになって走っている同世代の人もいるけれど、私は私のやり方で、のんびりとポールウォーキング。
誰とも比べず、我が道を行く。
これがいいのだ。これでいいのだ。これしかないのだ。
私にはネ!
さて今朝のウォーキング中に見かけた、ある日蓮宗のお寺の門。
私は宗派を問わず、お寺の入り口に掲げられている言葉が好き。
今日そこには、火の信仰と水の信仰について書かれたものが掲示されていた。
日蓮上人の言葉である。
何のことかなと読んでみると・・・ふむふむ・・・なぁ~るほど!
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抑も今の時、法華経を信ずる人あり。
或は火のごとく信ずる人もあり。
或は水のごとく信ずる人もあり。
聴聞する時は燃立つばかりおもえども、とおざかりぬれば、すつる心あり。
水のごとくと申すは、いつもたいせず信ずるなり。
此はいかなる時も、つねはたいせず、とわせ給えば、水のごとく信ぜさせ給えるか。
とうとしとうとし。
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調べたところ、ざっと、次のような意味である。
法華経を信仰する人の中には、火のような信仰の人もいれば、水のような信仰の人もいる。
火のような信仰とは、教えを聞いた時には燃えるように熱心に信仰するけれど、それは一時的であって、時の経過によってその熱も冷め、やがて捨ててしまう。
水のような信仰とは、いつも退くことなく継続的に信仰すること。
あなたがいつも退くことなく水のように信仰しているのは、まことに尊いことだ。
信仰を断酒に置き換えてみると、確かに火の断酒の人もいるし、水の断酒の人もいるし、いたなぁと、6年半の断酒ブログ生活を振り返り、思う。
一時的にわぁーっと盛り上がるタイプの人と、淡々と私のペースに合わせてくれる人とがいたし、今もいる。前者は火の断酒の人、後者は水の断酒の人かもしれない。
火の断酒の人は、やたらとノリがいい。だが、ある時ぷっつりと断酒の消息を断ってしまう。多くは、燃え上がった炎が消え、再飲酒して、元の木阿弥になっているようだ。
水の断酒の人は、ペースが変わらない。淡々と、ただ断酒の日々を積み重ねて行く。そして水が満ち満ちて、溢れ出すように、断酒も満ちて来るのだ。
大いに盛り上がってわいわいと断酒生活を送るのが私の理想だが、実生活では、一人で黙々と断酒を継続する他はない。
火の断酒は燃え尽きて終わる。
ずっと続く水の断酒をお勧めする。
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