梅雨が明けて、いきなり連日の猛暑となった今年の夏。
毎日朝から夜までエアコンがフル稼働していたものだが・・・
涼しくなった!さすがにもう、夏日は来ないだろう。
明日は良い天気のようなので、のんびりと散歩でもしようかな。
さて、私が今年の元旦から挑んでいる聖書の通読。
仏教の経典などに比べれば、聖書のほうが読みやすい。
今日読んでいた新約聖書(マルコの福音書)のある箇所で、あぁ、酒にも言えることだなと、閃いた。
ある安息日の日に、イエスが弟子と歩いていた時の事。弟子が空腹を覚え、麦畑の穂を摘んで食べ始めた。
それを見ていたファリサイ派の人が、あなたの弟子は、なぜ安息日にしてはならないことをしているのか、と咎めた。それに対するイエスの答えだ。
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そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。」(マルコの福音書2章27節)[新改訳2017聖書]
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(ファリサイ派とは、パリサイ派とか、パリサイ人とも呼ばれるが、律法を厳格に守って生きている人たちのこと。)
酒は、それを人が飲むために造られているのであって、人が酒を飲むために存在し生きているわけではない。
そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、現実には、酒のために存在している人が数多いのではないか。
自分の人生を犠牲にしてまで、酒を飲み、酒だけに生きている人を、アル中と呼ぶが、わが国だけでも、予備軍まで含めると、1000万人くらいいるらしい。
二六時中酒を追い求めている人は、酒のためにこの世に生まれて来たようなものだろう。その人の人生は、正に、酒のためにあり、酒に捧げる人生である。
酒なんぞに己が人生を支配されてはならない。酒のために人があるのではないから。
ここの所が肝要なので、よくよく考えてみてほししい。
私は酒を飲むために生まれて来たのか?私は酒に酔ったまま人生の終焉を迎えるのか?私の人生は一体何だったのか?酒に支配されて終わってしまうのか?
イエスの言葉を、飲酒なる行為に当てはめてみるならば、こうなる。
「酒は飲む人のために造られたのです。人が酒のために造られたのではありません。」
酒に支配されるのではなく、酒を支配しなければ自分の人生ではない。
酒を支配するとは、飲むことではなくて、自分の意志で飲まないことである。
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