酒をやめてhappyになろう!

31年間飲んできた酒をついにやめる日が来ました。でも、「断酒」はつらいよ。。。さて、いつまで続くか、続けられるか。はっきり言って、自信なし!《飲酒コントロール不能な「のみすけ」が書いてます。適正飲酒の方、酒を愛飲されている方は、当ブログをスルー(無視)して下さい》[コメント気まぐれ返信中m(_"_)m]

断酒・断酒・断酒!!

酒のために人があるのか(断酒7年223日目)

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セイダカアワダチソウ(天ぷらで食べたよ!)

 梅雨が明けて、いきなり連日の猛暑となった今年の夏。

 毎日朝から夜までエアコンがフル稼働していたものだが・・・

 

 涼しくなった!さすがにもう、夏日は来ないだろう。

 明日は良い天気のようなので、のんびりと散歩でもしようかな。

 

 さて、私が今年の元旦から挑んでいる聖書の通読。

 仏教の経典などに比べれば、聖書のほうが読みやすい。

 

 今日読んでいた新約聖書(マルコの福音書)のある箇所で、あぁ、酒にも言えることだなと、閃いた。

 

 ある安息日の日に、イエスが弟子と歩いていた時の事。弟子が空腹を覚え、麦畑の穂を摘んで食べ始めた。

 それを見ていたファリサイ派の人が、あなたの弟子は、なぜ安息日にしてはならないことをしているのか、と咎めた。それに対するイエスの答えだ。

 

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 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。」(マルコの福音書2章27節)[新改訳2017聖書]

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 (ファリサイ派とは、パリサイ派とか、パリサイ人とも呼ばれるが、律法を厳格に守って生きている人たちのこと。)

 

 酒は、それを人が飲むために造られているのであって、人が酒を飲むために存在し生きているわけではない。

 

 そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、現実には、酒のために存在している人が数多いのではないか。

 

 自分の人生を犠牲にしてまで、酒を飲み、酒だけに生きている人を、アル中と呼ぶが、わが国だけでも、予備軍まで含めると、1000万人くらいいるらしい。

 

 二六時中酒を追い求めている人は、酒のためにこの世に生まれて来たようなものだろう。その人の人生は、正に、酒のためにあり、酒に捧げる人生である。

 

 酒なんぞに己が人生を支配されてはならない。酒のために人があるのではないから。

 ここの所が肝要なので、よくよく考えてみてほししい。

 

 私は酒を飲むために生まれて来たのか?私は酒に酔ったまま人生の終焉を迎えるのか?私の人生は一体何だったのか?酒に支配されて終わってしまうのか?

 

 イエスの言葉を、飲酒なる行為に当てはめてみるならば、こうなる。 

 「酒は飲む人のために造られたのです。人が酒のために造られたのではありません。」

 

 酒に支配されるのではなく、酒を支配しなければ自分の人生ではない。

 酒を支配するとは、飲むことではなくて、自分の意志で飲まないことである。

 

 

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