今朝は、我が家の周囲では霧が出て、一面ミルク色の空気に包まれた。
ベランダへ出て見ると、湿度が高く、寒くはない。
それから徐々に霧は晴れて、曇り空から太陽が輝いた。
丸で、飲酒の濃霧に包まれていた自分が、断酒したことによって本来の視界を取り戻した出来事を、気象で表現したかのような朝だった。
今日のタイトルは、昨日書いた、泥酔したボクサーの起こした出来事に関係する。
最近、朝に良く聞いているBBN聖書放送と言うラジオアプリから、
「制約のない自由は暴走する」
「制約の下で自由にのびのびと生きるのが良い」
そんな話が流れた。
途中から聞いたので、話の全容は分からないが、かの有名なモーセの十戒についての話だった。
モーセの十戒は、同じキリスト教でも、カトリックとプロテスタントでは、異なっている。
その辺りは、置いておき、旧約聖書を読むと、モーセに導かれてエジプトを脱出した民は、この十戒を破っては神に見放され、ゴメンナサイと謝って神に赦されると、また破って神に見放され、またゴメンナサイと謝って・・・を繰り返す。
モーセがシナイ山で神から与えられた十戒は、それを守れば、神は幸福を約束してくれたのに、人々は破っては暴走する。
断酒も同じではないか。
断酒は、十戒どころか一戒である。
即ち、酒を飲んではいけない、或いは、酒を飲まない事。たったこれだけの戒めだ。
この一戒(制約)を守った上で、自由にのびのび生きるのが、断酒人。
たったひとつの戒めを守らず、或いは守れず、己を自由にしてしまえば、底なしに飲んだくれて暴走する。
我が家の子供たちは、元飲んだくれの断酒おやじを見て育ったので、酒を人生から除外することに、一応成功している。
やっと成人したかしないかくらいの彼らには、これから先長い人生なので、ずっと酒と関わらないでいられるかどうかは分からない。
もしこのまま一生酒と関わらずに生きることが出来るならば、酒を飲まない一戒を守った上での人生は、とても豊かになることと思う。
私ですら、人生の途上から始めた断酒の一戒で、残り少ない人生が豊かになったのだから。
ここ数日書いているけれど、今年は断酒をする上では、中々に好都合な状況にある。
断酒を始めたばかりの時、困るのは飲み会だが、その機会がほぼ消失しているからである。
酒を断つ、或いは、酒を飲まない、この一戒を己に課して、その下で自由にのびのびと生きようではないか。
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