1年と108日目ということで、大晦日の除夜の鐘の数の百八煩悩(108つの心の迷い)という言葉を心に浮かべたところで。。。
ここ数年、身内に不幸が重なり、人生と言うものについて、良く考える。
重なった不幸と言っても、多くのそれは、ほぼ寿命が尽きた末での病死だ。お釈迦様の説いた生老病死そのまま。先日書いた甥っ子のそれは、事情が違うけれども。
いつ何時、自分の命が終わるのか、誰も知らない。だからこそ、今生きているこの一瞬を大事にしなければならない。それと共に、この世で縁あって、たった今という時間を同時に生き、呼吸し、一緒に生活している家族や、学校・職場の友人・知人・同僚、ブログやTwitterでの知り合いの人々も、大事にしたい。皆さん全て生身の人間であるから、矢張り、お互いに、いつ何時突然のお別れが来るとも限らない。
そういう事に怯えて、恐怖を感じて生きようというのではなく、常にそういう事を前提に、自分とも家族ともその他の人たちとも接することにしようと考えている。いつだって『一期一会』の精神でいれば、悔いることもないと思うのだ。
一期一会とは、茶道の心得を表した言葉で、茶会での出会いは一生に一度しかないのだから、それを大切にして誠実な心で人と接するべきだということ。つまりどの人と会うのもコンタクトをするのも、一生に一度だけの機会、これっきりなのだから、そう心がけて接しなさいということだ。
あんな事を言わなければ良かったなぁ、
あそこでお礼をちゃんとしておけば良かったなぁ、
あんな返事の仕方は無かったなぁ、
些細な事で腹を立てて怒っちゃって悪かったなぁ、
などと、シラフであっても、反省することはある。
いわんや、酩酊においてをや!
何を言いたいのかというと、泥酔時に放った言葉や態度や視線が、そこに一緒にいた人の胸に突き刺さったかもしれないということだ。シラフであれば、それを記憶しているから、反省した後、その人に心から詫びることが出来る。しかし、正体もなく深酒した時に口から出た言葉など、何一つ明確に覚えてはいまいし、そこに誰がいたのかさえ記憶にない。
よく、子供の頃のことで、殴った奴は誰を殴ったかすぐ忘れるけれど、殴られた奴は、誰に殴られたか、一生忘れないというのと同じだ。
茶会ではないが、酒を飲む機会も、実は『一期一会』である。そんなことを踏まえて飲んでいる人はいないと思うが。
飲酒して酔っ払っていた頃の私には、数々の悔いの残る言動があった。それらを思い返すとき、何とまあ、相手に対して失礼で非礼であったことかと、忸怩たる思いに駆られるのだ。
生きているからこそ、酒をも飲めるということだろうが、はてさて、エタノールで麻酔された頭で、酔っ払っている状態は、本当に生きていると言えるのだろうか?
街を歩いていて道を尋ねられるのも、コンビニのレジでやり取りするのも、人とのちょっとした出会いは、全て『一期一会』だ。これは、一緒に生活している家族にしたって、全く同じこと。
こんなことを考えることが出来るようになったのも、酒を断ったからだろうと思う。
ただ、断ってから数か月の、去年の今頃は、ただただ飲みたいのを我慢するのが精一杯で、とてもこんなことを考える精神的余裕は無かった。
飲まない日を一日一日積み重ねて来たら、今日などは、炭酸飲料すら飲みたいとも思わず、冷たい麦茶を二杯ばかりで満足した。一年と言うのは、臨むと長い、けれども、過ぎてみれば短い。特に、断酒に於いては、一年と言う日々を、積み重ねる価値が大いにある。
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