ここ数日、世間で起こった飲酒絡みの事故に腹が立って、固いことばかり書いていたので、今日は、現在の自分の飲酒欲求などについて...
久しぶりに、丸1年前の今日のブログを読んでみた。
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2013年7月18日(一部抜粋)
狂い水とは言い得て妙なり(断酒126日目)
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今日などは、猛暑復活と共に、昨日までのほぼ消えたかと思われた飲酒欲求も再び襲い掛かって来ている。浮かぶのは、ビール、酎ハイ、サワーなどの、冷たい炭酸系のアルコール飲料ばかり。
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あらゆるものを狂わせる『狂い水』。と、分かっていても、飲みたくなる。断酒の日も3桁を越え、安定してきたかと思うと、波がやってくる。自分が綴って来たブログを読み返してみても、日によって、飲酒欲求が無かったり、弱かったり、強かったり、大波小波と凪の時と、目まぐるしく違うことが分かる。
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1年前は、かなりの猛暑日だったようだ。そういえば、昨年は、梅雨明けもかなり早かった。割と安定したのかと高を括っていたら、この日はかなりの飲酒欲求に襲われた記憶が確かにある。
今現在の心境としては、かなりというか、とても楽だなあ。恐らく、1年前の自分にその事を伝えても、信じはしないだろう。あの頃は、ずっとずっと飲みたいのを我慢しなければならないと思っていたから。
一体自分の何が変わったのかと考えてみた。ひとことで言うと、飲酒という行為をどう捉えるか、という観点が変わった。酒を飲んで酔うことを、日常的で普通の行為と捉えるのか、非日常的で異常な行為と捉えるのか、と。
やめてから暫くの間は、身体が飲酒を日常的な行動と認識しており、それをしないことは異常なので、苦痛だったみたいだ。飲まない期間が長くなってきたら、酒のない生活が普通となり、飲酒して酔うという行動は非日常的かつ異常な事だと思うようになった。こういった気分の転換が起きたのは、一体いつごろだったか、はっきりとは分からない。
でも、飲酒欲求の波は、まだ来る。これからも、たぶん、来る。
今日もそうだったが、小さなそれが来た時に、頭の中で飲みたいものを飲んでいる自分を想像してみる。エア・ギターならぬ、エア・ドリンキングみたいだな。エアなんで、いくら飲もうと何を飲もうと私の勝手だ。
私の場合、のど越しや味まで未だに再現できる。そして、しこたま飲んだ後に必ずやってくる例の不快感と、断酒のきっかけとなった大失態もかなりリアルに思い出す。すると、やっぱり、自分は飲んではならん!という所に落ち着く。
今の私が去年の私にアドバイスするとしたら、
『だまされたと思って、1年酒を断ってみるといいよ』
かな。
だまされたと思って酒を断つ人は、恐らくいないだろうけれどネ(笑)
連続する日常の中で繰り返す行為は、それが何であれ、自分にとって当たり前のことになる。好きなことなら尚更だ。腕立て伏せを毎日30回やるのと、飲酒を毎日するのと、どちらが続くかというと、飲酒に決まっている。
連続していた行為をやめようと決意し、実際にしなくなると、暫くの間は、かなりな心理的負担があり、しかも不安になる。それでも、一日一日積み重ねるしかない。しかし、1年が過ぎると、そのご褒美の大きさに驚くはず。
酒をやめたいけど、踏ん切りがつかないなー、という人がいたら...もし私にだまされるのがイヤなら、神様でもいいし、自分の好きな人でもいいから、とにかく1年だまされて、この期間やめてみるというのはどうだろう。日数で365日。
《虚仮の一念》愚かな者が一心に何かをやりとげようとすること。
この言葉が好きだ。私のこの1年は、虚仮の一念だったと思う。
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