先日のボクシング観戦時に、私の周りの知り合いは、当たり前のように生ビールを飲んでいた。
当ブログに度々登場する、正しい飲んだくれの見本(!?)である関西弁のCさんなどは、ロング缶の缶ビール&缶酎ハイを何本も持ち込み、飲みつつ観戦し、かなり出来上がっていた。
私が、思うのは、こんなことだ。
酒を飲むと気分がハイなる。感情に山が出来た。山は登れば、必ず降りて来るわけだが、酒の山の場合、アル中が亢進すると、高みにいる自分が当たり前で、飲んでない時の平地にいる自分に違和感を感じるようになるのだろう。
エタノールと言う薬品で人工的にハイな気分を作ることは出来ても、それを持続したければ、薬品の注入を続けなければならない。
もちろん、感情の起伏が激しい人は、酒を飲む・飲まないに関わらず存在する。
感情の起伏が激しくない人、とは、つまり穏やかな人。薬物のチカラを借りずに、自分でコントロールできる人。
昨日、『「デタラメ思考」で幸せになる!(ひろさちや 著/ヴィレッジブック)』と言う本を読み終えたのだが、面白い式が書いてあった。
私たちは、アメリカ型の資本主義という悪魔にたぶらかされて、「幸福」に関して間違った観念を植え付けられているのかもしれない。↑↑↑多くの人は、上の式が正しいと信じ込まされている。
これは、永遠に満たされない。何故ならば、欲望が充足された途端に、分母の欲望が膨らむからである。
この満たされない欲望の説明を、本書では、年収の例で書いてある。年収1000万欲しい人が現状500万ならば、半分の幸福である。これが800万になれば、8割の幸福。1000万で幸福が10割となって、満たされるかと言えば、そうではなくて、1000万では物足りない、2000万欲しい、となる。
すると、分母が大きくなるので、満たすためには、分子を大きくするしかない。
仏教では、欲望を充足させることでは、幸福は得られないと教えている。欲望を充足させようとするのではなくて、欲望を少なくする。そして、足るを知る心を持てば、幸福が得られる。↑↑↑これが釈迦の教える公式だそうだ。
酒を飲んで酔っ払ってハイになりたいのも、シラフでいる時よりももっと気持ち良くなりたいと言う欲望を充足させたいからである。キリがない。欲望がどんどん亢進して、24時間充足していたくなる。
シラフの今を大事にして、今この時この気持ちが、自分にとって最高の状態だと認識し、足るを知れば、少欲は満たされ、たった今、この場で幸福を味わうことが出来るので、酒なんぞは要らない。
もうひとつ、人間は、自分が所有するもので満足出来ないと、餓鬼になるそうで、更に、その餓鬼にも三種あるのだと書いてある。
《無財餓鬼》→何も財産を持っておらず、いつも裸で飢えており、しかも何も食べることが出来ない。
《少財餓鬼》→ほんの少々(ボロ布一枚)の財産を持ち、ほんの少々の飲み食い(墓場の腐った水を飲み、人糞を食すこと)が出来る。
《多財餓鬼》→莫大な財産を持ち、豪奢な家に住み、たらふく食べることが出来て、肥満体である。
多財餓鬼って、なぜ餓鬼なの?と思ったら、どんなに財産を持っていても、それに満足できずに、<もっと、もっと>と、欲望を膨らませ、募らせるから、餓鬼なのだそうだ。
これを読んだ時、ハッとしたのは、日本でも、世界でも、十二分に財産を持っているのに、<もっと、もっと>と欲望を膨らませ、募らせている大金持ちが沢山いるけれど、彼らは《多財餓鬼》だったんだ!と。
感情の起伏は、人間ならばあるのが当たり前だ。が、私はいついかなる時でも、なるべく穏やかで平坦な、そよ風が吹く草原のような心で過ごしたい... それには、少欲知足の実践なのだろうな。
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