酒、飲酒は、当初、甘美な世界を演出してくれる。
酔うことが楽しい。順番は、飲む→酔う→楽しい。
ところがその内に、楽しくなりたい→酔いたい→飲む。と、こうなる。
たまたま酒を飲んで、酔って、楽しかった経験から、逆算して、今気分が塞いでいるとしたら、楽しくなるには、酔えば良い、それには、飲酒だ、となり、酒に手が伸びる。
だが、度を越した飲酒はコワイ。
やり方によっては、深酒は、甘美から辛苦への片道切符となる。その方向は必ず、甘美→辛苦であって、辛苦→甘美の路線も切符も存在しないのである。
この切符を持って、一度乗車してしまうと、たまに停まる途中駅の手前で気付いて下車すれば良いが、終着駅《奈落の底》へとひた走る。
《甘美》・・・味が程よく甘くて、うまいこと。心地よくうっとりとした気持ちにさせること。
《辛苦》・・・つらく苦しい思いをすること。また、その苦しみ。
強いて言えば、辛苦→甘美へと戻りたいなら、手段として《断酒》がある。けれども、薬物のアルコールで強力に感じる《甘美》の世界は、断酒では得られない。断酒で手に入る《甘美》は、アルコールのそれとは全く違う。
頬を撫でるそよ風をも心地良いと感じる。道端に咲く雑草の花にもうっとりとする。
酒を抜いて1年もすれば、とても自然に甘美の世界を感じることが出来るのだ。つまり、過剰飲酒によって甘美から辛苦へと到着し、断酒によって辛苦から甘美へと戻った場合、同じ出発地に戻ったわけではなく、もっと足場が強固で安心出来る地に着いたのである。
もし、甘美から辛苦への片道切符を握りしめたまま、奈落の底への路線をひた走っているのなら、即刻その切符を捨てて、途中下車し、断酒路線へと乗り換えることをお勧めする。
↑これが、甘美から辛苦への片道切符だ。
(昨日、出先で見かけた、某居酒屋の、過激な飲み放題のキャッチコピー。この文言が、ある意味で核心を突いているのは、死ぬ覚悟があって酒を飲むなら、それも良し、とも取れるから。)
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