これまでに「飲酒欲求」を記事のタイトルにしたことがあったかどうか調べたら、一度も無かった。
もちろん、記事の中では触れているが、飲酒欲求だけを取り出して書いたことが無かっただけで、断酒後の飲酒欲求については、これまで何度も書いてきた。
断酒した人にとって、飲酒欲求さえなければ、そのまま断酒の継続が断然楽だろう。
が、そうは問屋が卸さない。激しい飲酒欲求に昼夜悩まされる。
この、飲酒欲求が激しく自分を揺さぶり、居ても立ってもいられない状態は、一体いつまで続くのだろうか?
気になるところだが、断酒と言う時間薬の作用は実に穏やかで、ジワジワと身体が健康になる。そして、喉から手が出るほど欲しかったその液体のことは、忘れてしまうこともある。が、これも人によりけりで、1年が経過しても、飲酒欲求が激しい人もいることだろう。
それほどに、エタノールは中毒性が強い。そんなものを飲んでいたのだから、飲酒欲求については、ずっとお付き合いが必要なのかもしれない。飲酒欲求は、決してゼロにはならない。この私も、完全にゼロかと問われれば、ゼロだと言う自信はない。
断酒を続けていれば、飲酒欲求が弱まる、ゼロに近づく・・・かも、はず、そうなってほしい、と期待するのも、良く分かる。けれども、前提として、飲酒欲求は続くと思っていたほうが良いのではないだろうか。
自分自身が断酒を開始した頃を振り返って見ると、激しい飲酒欲求と闘って来たことは確かだが、飲酒欲求が弱まったのは、これ、飽くまでもオマケのような気がしている。
飲酒欲求の強弱は二の次で、飽くまでも、断酒継続が大前提なのである。飲酒欲求が強過ぎるなら、弱まるのを期待するのではなくて、そのまま放っておくのが一番なのである。
飲酒欲求が強いのは、確かに苦しい。けれども、どれだけ飲みたくても、飲まないと決めた酒なのだから、飲むわけには行かない。
そこで、どうするか。もう何度も書いてきているが、飲酒欲求の根源を良く考えてみると、酒そのものについての認識が、当たり前に飲んでいた頃と変わっていないのではないだろうか。
飲酒欲求を云々する前に、地道な努力ながら、酒そのものに関して、広く深く、特に酒害について学び、己の脳を変革することが、飲酒欲求を軽減するための、急がば回れなのではないだろうか。
もちろん今日書いたことは、私の考えでしかなく、普遍性があるかどうかは分からない。が、自分にとっての酒の本質、酒害について学ぶ時間が増えるほど、飲む気が失せて行くのも確かである。
断酒の時間薬とは、ただ座して時の過ぎるのを待つことではない。酒、飲酒、エタノール、酒害について積極的に学ぶ時間がそのまま薬となるのである。
もうひとつ、自分が断酒を決意したきっかけ、それがどんなに恥ずかしく思い出したくないことでも、飲みたくなったらすぐに記憶の引き出しを開けて、「飲むとこうなるよ」と自分に囁くのも、良い。
私は今でも、最低一日に一回(ブログを書く時)は、自分の断酒のきっかけを、リアルに思い出している。その度におぞましさが漲る。これも良い薬だと思っている。
飲酒欲求も悩みのひとつと考えてみよう。これは、先日近所の禅寺に掲示されていた文言である。
*広告
↓↓↓※コメント欄は、承認制にしています。すぐには反映されませんが、必ず、読んで承認しますので、お待ち下さい<(.".)>
(まことに勝手ながら、コメント内容によっては、承認の前に、削除することもあります)