本日は、「第6回 震災復興元気市」が、埼玉県の飯能市で開かれた。
それに合わせて、私鉄のウォーキングイベントが開催され、かみさんと参加してきた。入間川添いを歩き、多峯主山を登って山頂から下界を眺め、中央公園で開かれている震災復興元気市へと。
6年前の大震災の時は、まだまだ大酒を飲んでいた私が、朝早くから起きて、かみさんとお握りを作り、早めの電車で飯能へと向かった。
人間変われば変わるものである。
今日歩いたコースは、アップダウンが激しくて、健脚の私でも結構スタミナを必要とした。かみさんも歩き切った。何度も途中で休憩をしたけれど。
雲一つない青空の下、真っすぐ前を見て歩く。沢山の人が参加していたが、酒臭い人も、酒を飲みながら歩く人も、いない。前の晩に飲み過ぎていたら、このようなイベントには参加出来ないし、そもそも飲んだくれはこのようなイベントに参加しないのだろう。
私は歩きつつ、酔っ払いは平坦な道を真っすぐにすら歩けないな、と思った。
6年前の大震災を重ね合わせて、何事もない平穏な日常生活を送りつつあるのは、単なる幻想であって、人間生きていれば、たった今、命に関わる何かが起きても不思議ではないことを考えた。
いざ、何かが起きた時に、もしへべれけに酔っ払っていたとしたら、的確な判断など出来るわけもなく、ただその事象に抗うこともなく、押し流されてしまう。
ただ、6年前の大震災では、酒など全く関係なく、多くの素面の人が、成す術もなく命を落としたのは、とても痛ましく、ただただご冥福をお祈りする。
私の心に去来したのは、もし、そのような時に、自分が酔っ払っていたとした場合のことだ。真っすぐにすら歩けないではないか。例えば、近くの高い場所に登れば助かるとしても、そこに登ることを思いつき、実行に移すことが、酔っ払った頭で出来るだろうか。
酒を飲んで酔う行為は、平穏な日常生活が連続する前提である。もちろん、その酔いの度合いには、ほろ酔いから泥酔まで、段階があるが、とことん飲んでしまう私のような人間は、酔っ払ってひっくり返っている間に何が起こっても気付かない。
このことの恐ろしさが分かれば、自ずと酒をやめるだろう。
自分の二本の足で、しっかりと大地を踏みしめ、前を見て真っすぐに歩くこと。酔っ払うと、これが出来なくなる。つまり、正常な人間の行動が出来なくなる。千鳥足では、目的地へ向かうことが出来ないのだ。
いつ何時でも、体の中にアルコールが滞留していないこと。素面であること。このことの安心感は、酒を断ってみないと分からない。
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