「飲んでも大丈夫」より「飲まなくても大丈夫」の自信を持とう。
先週金曜日(2017/6/16)のskypeミーティングで、松下さんから出た言葉。
断酒が100~200日くらいになって来て、飲んでも大丈夫みたいな、ヘンな自信が湧いて来て困っている方へのアドバイスだった。
決意してから今まで何十日、何か月、何年やめて来たのだろう。自分が酒を飲まないで生活して来たことに対して、自信を持つことはとても大切なことである。
これまで飲まないで来れたのだから、もう飲まなくても大丈夫!この自信なら、太鼓判を押す。
だが、これまで全く飲まない生活を送って来たのだから、飲む量を決めて、慎重に再飲酒すれば、自分ならば酒をコントロール出来る、などと言う全く根拠のない自信は、早々に捨て去れ!と、私はそのような人に断言する。
そんなことは出来ない、不可能である。これは、予め分かっていること。酒をコントロール出来るならば、断酒してはいないはずで、やめていた期間にそれが出来るようになる人など、どこにもいないのである。
根拠の全くない自信に促されて、例えば、一日に350缶ビール2本だけと決めたとする。初日はそれで済むかもしれない。やがて、350缶が500のロング缶になり、何やかやと理由を付けて、缶ビールにプラスして他の酒を飲むようになるのだ。
かくの如く、「飲んでも大丈夫」などと言う自信は、そもそも寄って立つ根拠が全くあやふやで、ふわふわしている、怪しげな自信なのである。
ところが、「飲まなくても大丈夫」のほうの自信は、これまでの断酒期間、実際に自分が酒を飲まないで過ごして来た生活が根拠になっている。しっかりとした下地があるのだ。
「飲まなくても大丈夫」の自信を、私は今日大いに感じた。
冒頭の写真は、JR長野駅、上の写真は、北陸新幹線。
いきなり、何?・・・実は、父が昨日亡くなり、本日荼毘に付して来たのだ。車を所有しない私は、かみさんと新幹線で田舎へと行ってきた。
4年前、母が亡くなった時には、その悲しみを忘れるため、飲酒量が大幅に増えた。結局はそれで起こした問題が断酒へのきっかけとはなったのだが。
今回、父の死では、私には「飲まなくても大丈夫」の自信があった。悲しみを紛らわそうとか、そこから逃れようとするから、酒が欲しくなるのだ。悲しみをきちんと悲しむ。たったこれだけで、酒など要らないのだ。
さて、あなたの自信はどちらだろうか?
「飲んでも大丈夫」?それとも「飲まなくても大丈夫」?
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