昨夜のskypeミーティングの終わりごろ、ある参加者の方が、こんな発言をされていた。
「どうしても酒を飲んでいる方を見下げてしまう自分がいるのです。上から目線と言いますか。良くないことだと思ってます。」
それを聞いて、かつて読んだ新約聖書マタイによる福音書第七章1-5の、次のフレーズを思い出した。《ちりと梁》は、訳書によっては、《わらと垂木》になっている。
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1.人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2.あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3.なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。
4.自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5.偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
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飲み続けているアル中の目にはちりがあり、酒を断ったアル中の目には梁があるのだ。自分の目の梁は、一生取れない。つまり、アル中は、飲んでも飲まなくても、アル中なのである。
私は、クリスチャンではないけれど、イエスの言葉は好きだ。
飲み続けてもアル中、断ってもアル中。なので、同病相憐れむことが、昨夜の悩みをそっと打ち明けてくれた方への、ひとつの回答かと思っている。(同病相哀れむとも書く。)
同病相憐れむの意味は、「同じ病気や悩み苦しみを持つ者は、互いの辛さがわかるので助け合い同情するものだということ」だが、アル中の場合、己の病を自覚していない人のほうが多い。 自覚せざるを得ない時でも、それを病が否認する。
断酒を無闇に勧めることは意味が無いので、飲み続けているアル中への、せめてもの断酒のアピールとしては、酒を断って明るく生活している己を見せつけてやることだろうか。
これならば、簡単である。酒なんぞ一滴も飲まなくても、日々こんなに楽しいわけで、ただ普通に生活している姿を見てもらえば良いだけだ。
それを見て、あれれ、かつてあれだけ飲んだくれていた人が、酒を断ってこんなに明るく健康的に生きている!と、驚嘆の眼差しを向けてくれればしめたもの。そして、もしも、そのアル中が、自分も酒を断ってみようかとの思いが少しでも心に浮かべば、嬉しいことだ。
最後にひとつだけ書き添えておくが、《同病相憐れむ》に似た言葉で、《傷の舐め合い》がある。が、これは、「似たような不幸の下にある者がなぐさめ合うこと」であって、断酒せざるを得ない身は、決して不幸ではなく、寧ろ毒を断ったことが幸福なのである。
断酒ブログに集うことは、《同病相憐れむ》であって、決して《傷の舐め合い》ではないことを、ここに記しておく。
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