酒を飲み物と捉えている内は、断酒していること自体が苦しい。
ある程度断酒に慣れて来ても、酒を飲み物と思っている内は、各種の酒の席で毅然とした態度を取ることに躊躇いを覚える。他の人が普通に飲むのに、自分は飲まないから。
他の人はどうでも良くて、自分にとって、酒が一体何なのか。突き詰めて考えると、酒は、自分にとっては飲むと死んでしまう毒薬である。多くの場合、真綿で首を絞められるように、時間を掛けて酒に殺される。急性アルコール中毒や泥酔による事故で、ほぼ即死の場合もある。
この辺りをきちんと考察し、自分にとって酒は飲み物ではないことを、自分で納得することが、どこへ出てもしっかりと、堂々と、自分が酒を飲まない人間であることを主張出来る土台となる。
私の持論だが、酒に未練がある状態だと、まだまだ酒を飲み物と捉え、飲みたくてたまらないし、断酒も安定しない。漢字で書けば一文字の《酒》だが、実に色んな種類があり、個人個人の酒歴によって、思いを致す酒類にも人それぞれ違いがあるだろうが、それは全て未練である。
私はこれまでかなりの時間と労力を費やして、ありとあらゆる酒害を調べて来た。その結果分かったのは、酒は飲み物ではないと言う事実である。
「は?酒は歴とした飲み物でしょ!」
と思われた方は、まだ酒に未練があるのだ。
酒のことを「狂い水」と表現することについて以前記事を書いたことがあるが、もうひとつ、「狂薬」とも言うのだ。人を狂わせる悪魔の飲み物が、酒の正体だ。
少量なら健康に役立つとか、薬になるとか、言われている。これは、私も認める。どんなに微量でも身体に悪いと言う研究もあるが、適量ならばある種の病気の予防になると言う研究もある。
酒が健康増進に役立つとして、これの大前提が、決めた量、決められた量を守ること。これが破られると、酒は毒薬に変わるのだ。
私のように、世間一般で言われている、アルコールは2単位までと決められた量も、或いは、自分で決めた一日これだけ、の量も、絶対に守れない人間には、酒は必ず毒薬となるのである。
つまり、私にとって、酒は飲み物ではないのだ。だから飲まないし、最近では断酒ではなくて、廃酒の心境である。断酒は、飲酒を中断しているような響きがある。廃酒だと、二度と飲酒に戻らない。
酒は飲み物ではない。これは、飽くまでも自分にとってのこと。他人がどんな酒をどれだけ飲もうと、我関せずである。一々酒を飲む人に関わってはいけない。あなたは飲む、私は飲まない、ただこれだけだ。
但し、横目に酒を普通に飲んでいる人を見ると、気の毒になることは確かだ。そこまでして何故毒を飲むのだろう、などと、老婆心が起こるのだ。決して口には出さないけれど。
もしも酒の席で、断酒していることに気後れすることがあったなら、口に出さなくても良いから、心の中で、
「あなたにとっては大好物の飲料でも、私にとっては酒は飲み物ではない。決して口に入れることは出来ないのだ!」
と呟いてみよう。
(花火の写真は、先週末に息子が撮影したもの。)
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