今日は、我が家から割と近いところでウォーキングイベントがあったので、かみさんと参加して来た。
哲学堂公園が、今日のウォークのコースに入っていた。公園に掲げてある説明の看板を読むと、ここは、真理を追究する公園である。
へへぇ~!と思ったからかどうか、腕組みをして歩いている自分に気付いた(笑)
哲学堂公園を歩いて来た。
— 断酒男爵 (@anomiyakun) 2018年2月24日
考えたこと。
飲酒に哲学は不要だ。
断酒には哲学が必要だ。 pic.twitter.com/2jnrTaM3qR
酒を断つと、色んなことを考えるのは、確かである。酒を飲んでいた31年間で考えた量は、断酒してから学び考えた量に遥かに及ばない。
このギャップは一体なんだろうと、公園を歩きながら考えた。
簡単である。酒を飲んで何か考えたとしても、酔っぱらう内に、忘れてしまうのだ。なので、考えたとしても、意味がない。
その内に、酒を飲むことそのものしか考えなくなり、安く手っ取り早く酔うために、酒の味などどうでもよくなり、ますます酒のこと以外考えなくなる。
断酒は、先ずそれを始めるに当たって、考える。
断酒を始めてから、この苦痛はなんだろうかと、考える。
この断酒の辛さはどうすればいいのか、考える。
断酒が辛いので、飲酒再開を考える。
でも、あの飲酒地獄に戻りたくないので、断酒を続けようと考える。
一日一日何とか断酒を継続し、断酒日数をカウントしつつ、考える。
飲酒で考えることは、今日はどの酒を飲もうか。
つまみは何にしようか。
ひとりで飲むのか、誰か飲み仲間と飲むのか。
家で飲むか、どこか飲み屋で飲もうか。
こんな風に、酒を飲む前提で考えることは、たかが知れている。考えると言うより、選ぶ、に近い。更に、飲酒して考えることは、何年経っても、進歩がない。
断酒して考えることは、その時間の経過と共に、変化する。最初は、ただ苦しくて、視野も狭かったかもしれないが、段々と断酒が安定して来ると、目の前が明るくなって、酒の裏側まで良く分かるようになる。
同じ酒のことを考えるなら、飲む酒を考えるより、断つ酒のことを考えたほうが、その後の人生、100倍くらい違うのではないか。
そんなことを考えて歩いた、哲学堂公園だった。
因みに、今日の写真の、河津桜と梅の花は、哲学堂公園に咲いていたもの。
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