長年に渡って続けていた飲んだくれ生活から足を洗って、私の断酒は、今のところ3年と10か月ばかりになる。
ブログのコメント欄やメールだけでなく、実生活の上でも、かつての飲んだくれ時代の私を知る人からは、
「凄いですね」とか「良くやめられてますね」とか「敬服します」とか、その他にも、大したもんだな!との意味合いを込めて、色々と言われる。中には、「酒も飲めずにお気の毒に」との気持ちが伝わることも・・・
でもこれは、私でなくても、断酒がもっと長い人でも、実際のところ、
「ん?酒をやめたって?それがどうした!?」
と言われても当然なのである。
ずっと飲んで来た己にとっての《毒=酒》に気付いて、飲むのをやめただけだ。これは、例えば、ある特定の食品の成分にアレルギーのある人が、それを含む食べ物に厳重に注意するのと同じことである。
だから、例えば、断酒の期間や方法を誰かと比べたり競ったり誇ったりすることには何の意味も無いどころか、却ってそれ自体が害毒になる。また、自分の方があの人より上だなどと勘違いして誰かを見下すのも愚の骨頂だし、その逆に、自分などまだまだダメだ、と卑下してしまうのも、実に下らないことである。
比べない・見下さない・卑下しない
これは、断酒だけでなく、自分の、自分だけの人生をより良く生きていくためには、必要なことだと私は考えている。
世の中には実に様々な人生を生きている人がいる。
ひとりひとり、この地球上で呼吸している。生まれた日も違えば、性別も、国籍も、肌の色も違う。また、その身体の状態も、五体満足で健康な人ばかりではない。生まれつき障害を持っている人もいる。後天的な理由で障害者になってしまった人もいる。
以前、金子みすずと言う、僅か26歳で夭逝してしまった天才詩人の「わたしと小鳥と鈴と」と言う詩を紹介した。
2015/3/9
『みんなちがって、みんないい(断酒1年360日目)』
この世に同じ人間はいない。みんな、違う。それぞれの人に、上下や優劣などないのだ。どんな状況でも、前向きに生きている人は、輝いている。
私は、今現在、たまたま健康である。見える、聞こえる、自分の口で食べることが出来る、喋ることが出来る、自分の足で好きな場所へ移動出来る。これは、自分で努力した結果ではなく、本当にたまたまである。
ところが、そうでない人もいる。癌に侵されて、闘っている人もいる。その他の病を治療中の人もいる。先天的または後天的に何かの理由があって、身体障害者として生きている人もいる。これも、その状態になってしまったことは、運命としか言いようがない。
五体満足で健康な私が幸せで、病気と闘っている人や、身体の一部に障害を抱えている人が不幸だろうか。いやいやそんなことはないのだ。人間を見た目で判断してはいけない。
どんな状況に置かれても、人は、自分の幸せを掴むことが出来るのだ。
あの有名なヘレン・ケラーは不幸だっただろうか。以前、何度かこのブログで取り上げた、東大教授の福島智先生は不幸だろうか。そんなことは決してない。
このブログの題名は、「酒をやめてhappyになろう!」だ。本来、そのままで幸せになることが出来るはずの、五体満足で健康体の多くの人が、酒を飲み過ぎて不幸になると言う、馬鹿々々しい人生を選んでいるのだ。ならば、不幸の根本的原因の酒をやめてしまおう!が、このブログで訴えていることだ。
ただ、自らが招いた過剰飲酒・問題飲酒による酒害を取り除くため、その原因である酒を断って暫くの期間が経過したからと言って、それがどうした?と私は思うのだ。断酒していることは、別にエライことでもない。
酒なんぞ最初から飲んでいない人は、断酒の必要も無い。タバコも同じで、最初から喫煙なんぞしていない人は、禁煙の必要も無い。だから、酒やタバコを断つ行為は、他人に誇れるようなものでは無い。自分で自分を褒める、自己の内部で閉じるものだ。
これは、常日頃私が、自戒していることである。
なので、誰とも比べないし、誰かを見下したりしないし、自分を卑下することもしない。自然体で、生きている。
以前、本で読んだのか、ネット上の記事だったか、ニュースだったか忘れてしまったが、首から下が動かない青年(少女だったかも?)の、
「自分は今の生活で十分に幸福であり、満足している。だから、私を見て、同情したり、憐れんだりしてほしくない。」
との言葉が、とても印象深く記憶に残っている。
自分の心を律するのは中々難しいが、比べない、見下さない、卑下しない、これらをこれからも肝に銘じて、断酒生活を送ろうと思う。
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