常に素面ならば、心眼は冴える。
酔うことによって、心眼は曇り、何も見えなくなる。
目から映像としての情報は入力されても、その善悪を判断したり、取捨選択する脳が、アルコールに支配されてしまうのが酔眼である。
ブログに入るコメントを読むと、理路整然としていて、コメントを下さる方の心眼は冴えていると感ずる。最近でこそ入らなくなったが、断酒初年度から1年目くらいの、酒の悪口を書きまくっていた頃、よく《酔っ払いネットサーファー》から、私が書いた酒の悪口に対して、批判のコメントが入ったものだった。
それはもうヒドイ文章で、酔っ払って書いたことが読んですぐにわかる内容だった。句読点や「てにをは」がデタラメの上、訳の分からないことを平気で書いてある。私の記事を酔眼で読み、アルコールでラリッった頭で文章を考えて書いたのだろう。
かつて酔っ払いの頃、酒の席でとても良い話を聞き、酔っ払いながらも忘れまいと、メモ帳にメモッたことが何度もあるが、翌日それを見ても、自分が書いたメモなのに、判読不能なことが多かった。
同じ自分の「眼」なのに、アルコールが身体に入ることによって、自分で見ている光景が歪む。直線が曲線に、四角形が三角形に、円が楕円に・・・真実の姿が歪められ、全く別の形になってしまう。
歪んだ視覚から入力される情報を、更にアルコールでラリってしまっている脳が受け止めて、本来の自分ではない別人格の酔っ払いが判断するわけで、酔眼の怖さは、冷静に考えれば考えるほど恐ろしさを増すのである。
心眼と酔眼を、剣豪の真剣勝負に例えてみると、良く分かる。
鞘から抜き放った真剣を構えて対峙する二人の侍がいるとする。片や、素面の心眼で、こなたかなり飲んだ飲んだくれの酔眼で、剣を構えているとする。これでは、剣を交える前に勝負が付いている。
危険を感じ取ることが出来ないから、酔眼の酔っ払いは、怖いもの無しだ。だが、それだけの話であって、心眼で対峙する素面の相手の一撃を躱すことも、最初から出来やしないのである。酔っている身体に敏捷性は期待できないし、判断力も相当に鈍っている上に、本来ならば働く勘も、アルコールに遮られて、全く役に立たない。
自分のかつての酔いどれの頃を思い出せば、満足に歩くことさえ出来なかった。家の中でさえ、である。方向感覚が全く狂っており、一体どこへ向かって歩いているのかさえ意識していないのだ。
心眼を研ぎ澄まして生きて行くのか、己を全くの無防備状態にして、どこの誰から攻撃されても全く何も抵抗の出来ない酔眼で生きて行くのか、 素面の時にじっくりと考えてみよう。
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