今日も、寄せられたコメントの中にあった、読者の方からの問い掛けに対して、私の考えを書いてみたい。
『単にどのように断酒するかという手段だけではなく、1ヶ月後、半年後、1年後その先へと、その時期時々に合わせた断酒方法を意識し、そして変化させていく必要があるのかなと。それが出来ている方は何年経ってもスリップせず、逆に出来ない方はどこかでスリップする。
ふとそう思いましたが如何でしょうか。』
(昨日の記事への、フクロウさんからのコメントの一部抜粋)
先ずは、私の考えを、ズバリ。
断酒している期間と、スリップの間には、相関関係はありそうで、実は無いのかな、と。
それは、30年断酒していた人が、ふとしたきっかけでスリップし、そこから狂ったように飲酒を再開してしまった実話があるから。
30年は長いが、10年とか20年の断酒の期間を経た人でも、スリップすることがある。
私は今、断酒5年を越えて安定していると自覚しているし、酒を飲む事など考えられない、と思っている。けれども、病が治ったわけではなく、アル中が断酒しているだけなので、私もスリップをしないとは言えない。
どちらかと言えば、意識したほうがいいのは、断酒の方法ではなくて、断酒して何年何十年経とうとも、自分は正真正銘のアル中(アルコール依存症)であること、かなと。
つまり、何十年酒を断っていようとも、アル中に治癒は無い。良く言われる例えでは、沢庵は決して大根には戻らない。
それと、スリップそのものについては、断酒の過程の中で起こりうる、想定内の事象であって、何度スリップしても、また断酒に挑めば良い、と私は考えている。
と言うのも、もし、スリップした人がそこでひどく落胆し、
「もう、断酒なんてやめた!」
となってしまったら、そこで断酒は終わってしまう。
それより、
「大丈夫だよ!もう一度挑もうよ!」
と、励まされ、本人もその気になって、
「よし、今回のスリップを良い経験として、また断酒しよう!」
と、再度断酒に挑むなら、きっと次はうまく行くだろう。
一度覚えてしまったクスリの味は、脳が快楽物質としてしっかり覚えている。ここが、酒の薬物としての恐ろしさである。
この辺りは、私たちのような、酒を断ったアル中にしか分からないところだろう。
新約聖書のマルコによる福音書13章33節に、私たちにちょうど良い言葉がある。
「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」
いつも気を付けて、目を覚ましていることが肝要なのかな。スリップするのはいつか分からないから。
*広告
↓↓↓※コメント欄は、承認制にしています。すぐには反映されませんが、必ず、読んで承認しますので、お待ち下さい<(.".)>
(まことに勝手ながら、コメント内容によっては、承認の前に、削除することもあります)