まだまだ暑い。
見た目だけでもひんやりと感ずるかもと、昨日冒頭に冬の小樽の写真を入れてみたので、今日も続けて別のを入れてみた。
2月の夫婦で行った札幌の旅が懐かしい。なよくんとみなみさんがわざわざ札幌駅まで迎えて下さり、その後一緒にミニオフ会をしたのも思い出した。
昨日書いた車の運転で言えば、食事の後、私たちのホテルまでなよくんが車で送ってくれたのだが、流石は地元の方である。雪道もなんのその、スイスイスイっと、ホテルに着いたのだった。
さて、私のライフワークのこの断酒ブログは、自分が酒を飲まない為だけでなく、頭の体操、ボケない訓練にもなっている。
大体いつも、夜書いてUPしたものを、朝読み直して、誤字脱字、表現の重複その他がないかチェックしている。
今朝、昨日の記事の中での妙な表現に気付いた。ただ、文脈の中では別段おかしくないので、修正はしていない。
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私は、自分を自分として自覚出来なくなる恐怖を常に感じている。
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酒とは無縁の今の生活の中で感じているこの恐怖が、飲んだくれ時代は毎晩実行されていたことに気付いた。
毎晩だ。
毎晩、自分が自分であることを自覚出来なくなるまで酔っぱらっていたことを思い出したのである。
このことをきちんと考えてみると、つまり自分で自分を強制的にボケさせていたようなものなのである。
家族が大迷惑するのも頷ける。
人が、自分が自分であることを認識出来ないのは、酒やドラッグでラリッている時ぐらいではないか。
私はドラッグは経験がないので何とも言えないが、酒に関しては、大いに語ることが出来る。アルコールが一定量身体に回り、酔いが進行して来ると、自分が自分ではなくなる。
飲酒運転などは、その最たるものだろう。
自分が自分でない人が車を運転しているのだ。
車は、走る凶器となって、無関係の人を殺める。
尾崎豊の「僕が僕であるために」の中に、
「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」
の一節がある。
私たちは、自分が自分であるために、酒に勝ち続けなきゃならないのだ。
酒を飲まないことによって、酒に勝ち続けるのである。
酒を飲んで、アルコールへの耐性の強さで酒に勝負を挑み、酒に勝とうとするバカがいる(←若い頃の私!)。
薬物アルコールに勝つには、薬物アルコールから離れることである。以前書いたが、塚原卜伝から学んだ、無酒勝流である。
自分が自分であるために!
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