アル中は酒に対して無力ではない!
これは、私が言っているのではなく、下記リンク先の、ハーバード大学医学部精神科助教授を退任し、現在は、新精神分析センター(ロサンゼルス)の教授であるLance Dodes氏が主張しているのである。
断酒開始時こそ、酒をやめるのに精一杯で、断酒やアルコール依存症については全く疎く、と言うよりも、知識がゼロで、手探りだったが、積極的に学ぶうちに、私はかなりのことを理解した。
そして、断酒開始から1年半が経過した頃、常々抱いていた「酒に対する無力を認める」違和感について、こんな記事を書いた。
2014/9/13
この記事での私の主張を抜粋してみる。
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よく、アルコールの前に《無力》な自分を認める、というのを聞くが、私には気に入らない。逆に言えば、アルコールに対して《有力》な人なら野放図に飲んでいいということにならないのだろうか?
酒を普通に飲んでいる人たちと、飲めない事情が生じ止めた自分たちを、同じ「飲酒と言う土俵」に置いて、一方は酒に強く有力で、他方は酒に弱く無力だ、として、自分たちを卑下しているような感じがしている。
そうではないのだ。そもそも私たちは、飲酒と言う馬鹿げた土俵から降りて、「断酒と言う土俵」に上がったのだ。そう考えると、そもそも土俵が違うわけである。
同じ土俵で考えてしまうから、アルコールに対して《無力》な自分という考えが生じる。そうなると、街中でそれらの飲料を見かけた時、飲みたくても、自分は《無力》だから飲んではいけない、ということになる。うまそうにアルコール飲料を飲んでいるアルコールに対して《有力》な人を見る度に、アルコールに対して《無力》な自分は、彼らが羨ましく、《無力》な自分が惨めになるのではないか。
土俵云々の前に、実は、《無力》も《有力》もないのだ。アルコール(つまりエタノール)は、麻酔作用があり、かつ致死量を持つ薬物なのである。《無力》でない人でも、致死量を越えて摂取出来る代物ではないのだ。この辺りが、抜けてしまい、堂々と売られている酒のほうがのさばっているのだ。
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途中で断わっておくけれども、今日の記事では、飽くまでも、私が感じたことを正直に書くだけてある。《酒に対して無力》《アルコールに対して無力》なる言葉の捉え方が、読んで下さる方と私とでは、全く異なっていることもあるはずだ。なので、もし今日の記事で不愉快な思いをされる方がいたなら、お忘れ&お許し頂きたい。
酒をやめたいアル中が先ず認めなければならないこととして良く聞くのは、
《私たちはアルコールに対し無力であり・・・》とか
《私たちは酒に対し無力であり・・・》などである。
ところで、《無力(powerless)》の反対は《有力(powerful)》だ。
アルコール依存症になっていない、ノーマルな(?)酒飲みは、
《私たちはアルコールに対し有力であり・・・》となるのかな。もっと砕けた表現だと《オレたち酒に対しちゃパワフルだぜ・・・》か。酒に対して力がある、即ち有力な状態であれば、酒をどんなに飲んでも良いのかな?と、私は素朴な疑問が湧いた。
そもそも、アルコールなんぞを飲み物として認めていない私には、この、《アルコールに対して無力》の部分がとても引っかかり、強烈な違和感を抱くのである。
酒そのものを《全うなる飲み物》として認めてしまっているところが、気に入らない。
私の考えでは、自分はアルコールに対しては無力でも有力でも無い。何故ならば、アルコールは毒物であるから、取り扱いをしっかりしなければならないだけの代物だと認識しているからである。
もし、覚せい剤が合法であったとしたら、「私たちは覚せい剤に対して無力であることを認める」のだろうか。麻薬でも同じだ。麻薬が合法だったら、「私たちは麻薬に対して無力であることを認める」のだろうか。
この辺りのことを、冒頭で紹介したLance Dodes氏が、こう書いている。
This is sheer nonsense. And when people think that their problem is a chemical in a bottle, they focus on trying to resist the chemical rather than doing what is truly useful: trying to understand their minds.
(これはまったくナンセンスです。人々が自分の問題が瓶の中の化学物質であると考えるとき、彼らは本当に役に立つことをするよりはむしろ、化学物質に抵抗することに集中します:彼らの心を理解しようとすること。)
言わずもがなではあるが、瓶の中の化学物質とは、酒瓶の中のアルコールのことである。
酒の存在及び飲酒が大前提の中で、なぜ私が小さく無力でなければならないのか?
大いに疑問である。
私の断酒に対する考え方は、全然違う。酒は飲み物ではなく、毒物であるから、私にとっては酒を飲むこと、それは死に値する。即ち、私は酒に対してもアルコールに対しても、無力ではないし、有力でもないのだ。
ところで先ほど、言葉の捉え方は人ぞれぞれと書いたが、昨夜のskypeミーティングの参加者に、《アルコールや酒に対して無力》の文言をどう捉えているか聞いたみた。
案の定、人それぞれだった!
私が一番なるほどと感銘を受けたのは、文言の中の《私たち》とは、《人類》とか《人間》であり、つまり、私たち断酒した人間は、人類が全てアルコールに対して無力であることをことを認めたとの解釈だった。
皆さんはどう解釈していらっしゃるだろうか?
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