断酒に関して書くことが、ここのところ、急速に枯渇している。
自分の体内に積もり積もって幾層にも重なっていた《酒毒》が、飲まない日を一日加算する度に、ブログの記事を書く度に、剥がれ落ち、もう残っていないような気もする。
例えてみれば、飲酒山のてっぺんから転がるようなイメージで、それはつまり、中学生の理科で教わる位置エネルギーと同じで、酒への情熱エネルギーが、 かなり減ったことによるのだろう、きっと。最早、酒を好きではなく、かと言ってこれまで盛んに書いてきたように、酒を嫌いなのかというと、これも当て嵌まらない。
酒など、どうでも良くなったというのが、一番簡単な表現かもしれない。
これは、これで、とっても良いことではあるが、ブログのネタがないので、来年の3月14日まで何を書こうかな、という、贅沢な悩みが出てきたな~(笑)
もう、かなり前にブログを閉じてしまわれた、みどりこさんが、その断酒ブログの最後のほうで書かれていた、もう、自分の人生には酒が不要なので、このブログに書くこともないし。。。という心境に近づきつつあるのかもしれない。
断酒前は、いつも飲酒山の頂上で、酒盛りしていた、自分。標高ん千メートルのその山は、のんべーなら誰でも持つ山だ。飲み始めた頃に登山を開始し、5合目くらいまでで上手に暮す人もいれば、頂上に登ったままいい気になって、一生下山しない人もいる。
私のように、ある日突然、転がり落ちるように下山を始めると、当初、その飲酒欲求という物凄い勢いの位置エネルギーに苦しめられ、戸惑い、また頂上に戻ろうかとさえ思ったりする。しかし、もう頂上はイヤなので、それでも下山を続けると、位置エネルギーがどんどん消費され、麓のなだらかな斜面に到達するころには、全く停止するわけではないが、当初の猛スピードに比べると、穏やかに、のんびりと、風景をすら楽しめるような境地になる。
しかし、飲酒再開したら、あっという間に頂上に逆戻りというのは、よーーーーーく分かっているので、酒(アルコール)に対する警戒網は一生解くことはない。そこだけ注意が必要だけれど、あとは肩の力を抜いて、脱飲酒生活を、のんびりと楽しもう。
独り酒も、他者との飲み会も、大よそ酒に費やす人生の時間は、もう無くなったことが嬉しい。酒のために、残りの人生をたった1秒でも使わなくて済むことが嬉しい。
酒を飲まないと本音の会話が出来ないなんて、おかしな話で、それならば、子供たちの会話はどうなるのかなあ?寧ろ、シラフだからこそ、言いたいことをきちんと伝え、相手の反応も理解出来る。
さて、明日から何を書こうかな。
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紅葉の季節ということで、義父の遺作から何枚か、借りてみた。
4年前の『毛越寺の紅葉』
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