先日、何かの話の中で、かみさんから、
「あなたって、へそ曲がりで強情だよねえ。一度曲げたへそは、絶対に曲がったままだね」
って言われた。
んー!これは、全然嬉しくないかも。でも、そんなこと言われたら、以前なら腹が立ったものだが、今は、褒め言葉として受け取ろう。
それにしても《へそ曲がり》なんて、なんだか懐かしい響きの言葉だなー。私は、もうひとつ、《つむじ曲がり》でもある。同じことか(笑)
何故、褒め言葉として受け取ったかと言うと、断酒以来、あれだけ大好きだった酒に対して、へそを曲げ、強情を張っているから。酒に対して曲げるへそなら、大いに結構だろうと思って。酒なんか絶対に飲まないってことに、へそ曲がりの面目躍如たるものを感じる。
世の中の飲酒というものに対して、へそ曲がり・つむじ曲がりで生きる。強情なまでに、飲まない。自分の特性を、断酒に生かせるなんて、最高じゃないか!と、良い方へ考えてみた。
しかし、逆に、かつて当たり前に酒を飲んでいた頃は、この特性が災いして、頑なに飲酒に拘っていたのも事実。
『オレは、酒が大好き。絶対にやめない。オレの人生から酒を取ったら、楽しみが全て失われてしまう!死ぬまで酒を飲む。飲んで酔ったまま死ぬんだ』
こんなことを、へそ曲がりの強情っ張りの私は考えていたわけだ。「飲む」から「飲まない」へ、へそを180度転換して曲げなおしたので、今は頑なに、飲まない。このへその曲げなおしには、かなりの忍耐が必要だったが、いつ元のへそに戻るか分からないので、用心している。
問題飲酒であることが歴然としているのに、それを認めない人は、へそ曲がりで強情っ張りであることは間違いない。なので、本人がそれに気づき、これはマズイな、これじゃヤバイな、という心境になるのは、かなり困難だろう。
そこのところ、つまり、本人が自覚するということが、一番肝心なのだ。問題飲酒者本人が気付けば、医療機関や断酒会やAAなど、酒を断つために助けを求める所、援助してくれる所は、必ずある。そこには、飲酒にまつわる問題の解決に経験豊富な人々が、仲間が、必ずいる。
一緒に暮らしている家族も、一番身近な人に分かって貰いたいのに、分かってくれない、と言う事が、辛いだろう。本人がそれに気付くきっかけづくり、何かないかなー。そこさえうまく行けば、アルコール依存症の人の回復への道程は早いと思うのだ。アルコール依存症は、否認の病と言われているから、如何に本人に肯定させるか、というところが一番の勘所なんだが。
ことわざに言う『馬を水辺に連れて行けても、水を飲ませる事は出来ない』ということだ。喉も渇いてない馬が水を飲まないように、自分がアルコール中毒であると認めない人は、飲酒生活を改善しようとはしないから。
本人が気付けば、その時が回復へのスタートになるのになー。
(今日の記事は、断酒255日目に書いた、「天の邪鬼〈あまのじゃく〉スピリットで楽しもう」の内容と重なる部分があったかもしれないが、ご容赦を…)
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昨日のごまちゃんへのコメント返しで、定年後、飲んだくれたままなら、腐った生ごみ状態だけれど、酒を断てば、泥の中で咲く蓮(ハス)のように輝くことが出来る、みたいなことを書いた。
それで、今は亡き義父の撮影した、中尊寺の古代ハスの写真を思い出したので、載せてみた。
800年もの眠りから覚めて、見事開花した、古代ハス。このハスのように、アルコールによる飲んだくれの眠りから覚めて、残りの人生を開花させよう!
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