最近よくニュースになっている、学校での虐めによる子供の自殺。
学校や教育委員会などは、問題発覚後、虐めが無かったことを前提に動く。自分たちにとって都合の悪いことには、関わりたくないからだろう。この手の機関の要職にある人たちは、事なかれ主義である。
あと少し何もなければ、満額退職金をもらって、他の機関や組織へ天下るか、悠々自適の年金生活が待っているからだろうね。預かった子供の命より自分の保身が最優先なのだ。
けれども、良くも悪くも、今やネット時代だ。超スピードで、あらゆることが調べられ、真実が剥き出しにされて行く。無念を心に秘めて亡くなって行く子供も、スマホやSNSに自分の思いを残している場合が多い。今や教育関係者の逃げ切りは難しい時代だ。
教育に携わる者たちは、教育でメシを食べているのだ。言ってみれば、子供たちを相手の商売なのだ。何故もっと子供たちを大切にしないのだ?自殺など起きたら、苛めが無かったことではなくて、有ったことを前提に何故動けないのだ?私は、子を持つ親として、教育関係者の態度に、いつも憤りを感じている。
ここで、話をアル中に転換する。
多くのアル中も、自分のアルコール依存症は、無しが前提だ。認めてしまうと、飲めなくなってしまう不都合が待っているからである。
飲酒に多少の問題はあるかも知れないが、自分だけは、大丈夫。アル中なんかじゃない!うまく対処出来る。と、酒を飲み続けることを前提に考えるのが、真のアル中だ。先日skypeミーテイングで松下さんが、「アル中の中は中心の中でもある。つまり、思考がアルコール中心と言うことだ」とおっしゃっていたが、正にこれである。
自分にとって不都合なことほど、有りを前提に動かなければならない。アルコール依存症であることを認めた私は、このことがとても良く分かる。
酒を飲んだ翌日、前夜の記憶が無いのは、ヤバくないのか?
毎日多量の飲酒をしているが、これは良いことなのか?
泥酔して怪我をしたことがあるが、これからも有り得るのではないか?
朝から酒のことばかり考えているけれど、おかしくないか?
健康診断の結果がかなり悪く、酒が原因だと言われたが、どうするのだ?
不都合な現実を認め、良くないこと(つまり悪いこと)が有ることを前提にするなら、自分のアルコール依存も、有りなのだ。自分はアルコール依存だ。さて、どうするか。と、有を認めれば、一歩前進するのである。
アルコール依存を認めないのは、それへの対処つまり治療法が断酒しかないの知っており、酒が飲めなくなってしまうのが嫌だからだ。
アルコール依存を認めない人に向けて、私が拡声器で言う。
「無駄な抵抗はやめろ!あなたは、アル中だ!」
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