昔から、神仏に願い祈る事を「願掛け」と言い、水ごりを取ったり、お百度参りをしたり、好きなものを断つ断ち物をしたりする風習があった。
例えば、我が子に何かの問題が生じ、それを何とかしたいと切に願う母親が、願掛けをする。それ以外に成す術が見つからないからだ。
自分が気付いてやめる酒も、自らの平和な暮らしを願い祈るための、断ち物だと考えれば、断酒も願掛けとなる。
3年前に、おもしろい記事を書いていた。
2013/11/26
『飲酒教やめて断酒教に入りませんか?(断酒257日目)』
この時書いたのは、信仰の有る人も無い人も、断酒教に入信して、唯一の教義、「酒を飲まない」を実践しようってことだった。
この時の記事でも書いているが、酒をやめられないのは、カルト宗教の飲酒教にはまってしまったようなものだ。問題のある宗教にはまった人は、本人は信じた道をひたすら正しいと思って歩んでいるが、周囲から見れば明らかに異常である。
この飲酒教から離脱出来るかどうかのポイントは、本人がそれに気づくかどうか。先ず始めは、飽くまでも本人の自覚だ。これが無いと、スタートラインにさえ立てない。
酒断ちの願掛けをするとして、願うものは何だろうか。私は、平和な生活を願って、酒を断った。平和とは、心配やもめ事が無く、穏やかなこと。そのようなさま。飲んだくれには、心配やもめ事が付いて回る。家族が心配し、本人はもめ事を起こす。
本人が酒を断てば、家族の心配も、本人の起こすもめ事も、全て無くなる。
平和な生活を祈って、願掛けて、酒を断つ。己のため、家族のため。
色んな考え方、やり方があるけれど、こう言うのもいいかな。
誰かに、
「なんで酒を飲まないの?」
と聞かれたら、
「今、あることの願掛けをしてまして、それが成就するまで、大好きな酒を断って願掛けしてるんですよ」
なんて答えはどうだろうか。
古風だけれど、素敵な答えだと思う。
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