近所に一面のコスモス畑があり、毎年咲き誇って、ちょっとした名所になっていた。
ところが、昨年の秋のこと、突如やめてしまった。畑の所有者のご意向なので、致し方ないのだが、残念だった。
それが今年、冒頭の写真のように、また復活した。
コスモス畑に一喜一憂するなんて、断酒したからこそである。このコスモス畑のことも、飲んだくれ時代は知らなかったのだから。
かつて毎日が酔っ払いであった私は、今や更生し、全くのド・シラフである。
何年か振りで会う人は、私が酒を飲まなくなったことを、とても驚き、不思議がる。
誰にどう思われようとも、飲まないものは飲まないのだ。
私は、心底酔っ払いが嫌いなのだ。自分がかつてそうであった状態を熟知しているので、尚更である。
そもそも、アルコールで脳が汚染された状態にある人を《酔っ払い》と呼ぶわけだが、この酔っ払いに出来ることとは、なんだろうか。素朴だが、マトモに考えるとバカバカしい。
昼間、tweetしてみたのが、これ。
酒に酔って出来ること。
— 断酒男爵 (@anomiyakun) October 8, 2019
千鳥足で歩く。
暴言を吐く。
辺り構わず吐瀉。
道路に寝る。
大騒ぎをする。
器物損壊。
飲酒運転。
喧嘩。
口論。
痴漢。
アルハラ。
他にも・・・
こうして並べてみると、酒を飲んで酔うことの意味が全く分からん。
恐ろしいのは、自分のしたことの記憶が全く無いこと。
他にもあるだろうけれど、酔っ払いに出来ることの殆どは、この世にあって害悪でしかない。
それは当たり前で、常識ある人も、酔う=薬物アルコールでラリッてしまうことにより、十把ひとからげの《酔っ払い》に成り下がる。
酔っ払いには、秋に咲くコスモスの花の美しさなど分からない。目に入って来る情報は、アルコールでフィルタリングされ、その通りには脳に届かないのだから。
酔っ払いに出来ること。酔っ払いにしか出来ないこと。それらは、素面ではとても考えられない、破廉恥なことばかりではないか。
どうしてわざわざ、そのような下卑た酔っ払いに成り下がるために、酒を飲むのか。かつて飲んだくれていた経験豊富な私にすら、全く分からない。
酒を飲まず、酒から離れ、いつも素面でいることがどんなに素晴らしいことか、それは断酒してみないと分からない。
なので、飲んだくれと断酒erの間には、埋めらない深い溝がある。その溝を、エイヤッと飛び越えて来るのが断酒erである。
酔っ払いに出来ることは、はっきり言って、ろくでもないことばかり。
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