天気予報が、当たらずといえども遠からず、と言うのかな、左程寒くもならず、雨も大したことが無かった。
(左程寒くはない、そう感じたのは私だけか、家族は頻りに寒い寒いを連発していた・・・)
今週末の日曜に、妻と観に行こうと前々から計画していることがある。そろそろ見ごろの、秩父の羊山公園の芝桜。
そこへ、突然今日の午前中、妻からLINEがあって、「国領神社の藤も見ごろらしいよ。こっちにしようか?」と。
国領神社は、最寄り駅が京王線の布田。結婚したころ住んでいた調布のひとつ手前の駅だ。もう25年も前のことで、懐かしい。
秩父は今の時期、初夏の前の晩春の爽やかさな空気が山から吹いて来て、歩くのにそれはそれは適している。調布は、土地勘もあり、以前住んでいたので懐かしい。
芝桜にしようか、藤にしようか。秩父にしようか、調布にしようか。
行く前から悩ましいが、想像し考えるのが楽しい。これは、自分だけではなくて、家族と共有できる楽しい悩み。
日曜日、晴れそうなので、実際にどちらか(秩父か布田)へ行くことになりそうだが、その日、どちらの花を観賞するにしても、楽しいことだろう。
このように、酒の絡まぬ楽しみは、家族で共有出来るのである。
一方、酒は・・・一人での孤独な刹那的快楽。相手を必要とせず、ただアルコールが脳に回って、その薬物の刺激でラリッて偽の快感を得ているだけ。
周囲に家族が居ても、ヨッパライがアルコールで得ている偽の快楽からを、迷惑な表情で見ているだけ。
週末に、何処へ何の花を観に行こうか、と家族と計画する。
週末に、家で何の酒を飲もうか、と一人で考える。
酒を人生から排除してしまうと、自分と家族の生活の質が向上し、貴重な時間を一緒に有効に過ごすことが出来る。
だらだらと酒を飲み続ける人生だと、自分と家族の生活の質は低下し、貴重な時間がどんどん失われて行く。
こうして、日々バカバカしい酒と飲酒のことをあーでもない、こーでもないと書き連ねていると、酒と飲酒が私にとっては下劣な習慣であったことを思い知る。
私にとっての酒と飲酒は、単に薬物アルコールによる刹那的快楽に過ぎなかった。何の計画性もなく、ただ飲んで、体内にアルコールを駆け巡らせて、薬物でラリッていただけ。
さて、週末の日曜日、芝桜にしようか、藤にしようか。
*広告
↓↓↓※コメント欄は、承認制にしています。すぐには反映されませんが、必ず、読んで承認しますので、お待ち下さい<(.".)>
(まことに勝手ながら、コメント内容によっては、承認の前に、削除することもあります)